地と図‘91 (Art Union) |
| - 柳川芳命 |
|
|
柳川芳命 (as,ss) 1991/03/03 |
|
|
|
私は尺八の音色が大好きなので、特に秋や冬になると、宮田耕八郎の尺八のアルバムを聴きながら、しんみりと日本酒を呑んだりすることが楽しみの一つだったりもする。 私が持っている宮田耕八郎のアルバム『尺八の世界』は、彼の尺八の独奏を集めたものだ。 尺八の独奏の何が良いのかというと、まずは、他の楽器に気を取られずに、尺八独特の音色だけを味わえること。 旋律以前に、尺八の豊かで様々な表情を見せる音色を味わえる。そして、どこか全体的に寂しげな音色が好きだ。 寂しげな音色の中に、どこかピリッとした厳しさも漂っているので、自然と背筋が伸び、心が洗われ、かつ引き締まる感触も覚える。 尺八の独奏は遅めのテンポで演奏される曲が多く、聴いていると何とも形容し難い、不思議に落ち着いた精神状態になる。 慣れてくると「間」も楽しむことが出来、「尺八の鳴っていない状態の音」をも楽しんでいる自分に気がつく。 特に、「鶴の巣籠」や「鹿の遠音」などの独奏は、一本の竹で作られた、構造的にも非常にシンプルな楽器から、ここまで豊かな世界が形作られるのかと思うと、感動的だ。 さて、まるで尺八を聴いているような気分でゆったりと、そして、まるで演奏者の「気分」と「思考」と一体化したような気持ちで、音と無音の隅から隅までを味わい尽くすように聴いているアルバムがある。 柳川芳命のサックス・ソロを集めた『地と図 '91』だ。 決して「尺八の代替音楽」として、彼の音を聴いているわけではない。 しかし、それでも音に触れたときの特殊な自分の心理状態は、気がつくと尺八の独奏を聴いているときのような気分になるのだ。 柳川芳命のサックスの音色を聴いていると、他のことには一切何も手がつかなくなる。 読書中だったら、ページをめくる手を止めるしかないし、コーヒーや酒を飲んでいても、グラスやカップを持つ手が、音が鳴っている間は止まる。 彼のサックスソロは、端的に言ってしまえば、メロディアス。そして、メランコリック。 耳をつんざくようなフラジオを駆使した音使いさえも、私にはメロディアスに聴こえてしまう。 サックスのソロ演奏というと、私は、どうしても阿部薫の演奏を思い浮かべ、かつ無意識に比較をしてしまっているところがある。 しかし、同じなのはアルトサックスという楽器と、ソロというフォーマットなだけで、二人の表現内容は、当たり前だが、まったく違う。 別の世界の音楽同士を比較するほどの違いと無意味さだ。 阿部のサックスは、サックスから音が発せられている「今」こそが「すべて」で、それ以上でもそれ以下でもない、一切の意味づけや情緒を拒否するかのような刹那的なところがある。 出た瞬間の音それ自体が「意味」だし、それが「すべて」だ。それ以外の連続性は、頑なに拒絶されてしまうほどの強度と厳しさがある。 ところが、柳川のソロは、過去と現在の連続性だと思う。 真剣に一音一音を追いかけていると、どうして、この音色で、今、この瞬間、ここで吹かれているのだろうと、自分自身があたかも柳川になったような気分で、次の「間」や「音色」そして「フレーズ」を一生懸命模索してしまっているのだ。 たった今、耳に響いたメロディの断片を手がかりに、聴き手は無意識に次の瞬間に出てくるはずの音を模索しはじめる。 そして、その予想は大きく裏切られることもなく、そのくせ、新鮮な驚きに満ちた音が中空に放たれるのだ。 ひょっとしたら、柳川のソロワークは、聴き手との共振、共同作業を目論んだ周到な企みなのかもしれない。 彼は、ノイズバンドもやっていたようだが、決して騒音発声装置的なサックスではない。どこまでもメロディアスだ。 まるで尺八が奏でる、悠久の旋律を彷彿とさせるようなメロディを柳川芳命は、アルトとソプラノサックスを媒介として、即興演奏で紡ぎ出してゆくのだ。 |
| (2002/07/05) |
|
|
|
|
All Rights Reserved. |