LENNIE TRISTANO (鬼才トリスターノ) (Atlantic) |
| - Lennie Tristano |
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Lennie Tristano (p) Lee Konitz (as) Peter Ind (b) Gene Ramey (b) Art Taylor (ds) Jeff Morton (ds) 1955年 |
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これは恐ろしいアルバムだ。 間違っても初心者が興味半分で手を出してはいけない。 いや、いけなくはないんだけどさ(笑)、 トリスターノという盲目のピアニストの執拗なまでの実験精神、さらにはそこから発展した妄想が生み出すマッドサイエンティストぶりを垣間見てしまう内容なのだ。 特に前半のA面にそれが顕著だ。 ジャズのアルバムを聴くこと数千枚、何人もの過激なピアニストは聴いてきたつもりだ。 しかし、表面的な音の過激さと、一見平穏を装った中からも沸々と湯気が立つような内面の沸点の高さとは、全然、表現の恐ろしさのレベルが違うのですよ。 たとえば、分かりやすい例を挙げると、山下洋輔。 彼の過激な鍵盤叩きまくりの表現は、一見過激だけれども、音そのものは、どこまでも爽快で突き抜けたところがあり、スポーティですらある(もっとも初期のトリオは殺気だった演奏が何枚かあるにはあるが)。 マッコイ・タイナーの和音ガンガン連打も、ドン・ピューレンの鍵盤連打も、こちらの心の琴線を叩いてくれる心地の良さがある。 彼らの表現は、“音としては過激”なのかもしれないが、迫り来る怨念のような重たい空気は希薄だ。 もちろん、だからこそ聴きやすくてイイのだが。 ところが、ところが。 トリスターノのピアノって、彼らのように音的に過激な表現はない。 BGMとして接していれば、当たり障りのないピアノが耳の右から左から流れてゆくだけかもしれない。 とくに、このアルバムの後半、コニッツとの共演している演奏なんかはね。 しかし、一見当たり障りの無いピアノも耳を凝らしてよ〜く聴くと、 なんかヘン、 いや、かなりヘン。 とてつもなく“何かありそうなヤバい感じ”に気がついてくるのだ。 盲目ゆえ、鍵盤を手探りで弾いているのかもしれない。 だから、隣り合った音がクロマティカルにウネウネと蛇行を繰り返しながらも、息の長いフレーズが紡ぎだされている。 音の粒立ち、長さ、抑揚はストイックなまでに正確そのもの。 しかし、演奏しているのは、やはり人間だ。 機械の音になりえないところは、音と音の“行間”から漂う演奏に対する異常なまでの執着と集中力。 異常なまでの音価に対するコダワリが、ほとんど怨念に近い空気となって、目に見えない形となってスピーカーから飛び出してくるのだ。 トリスターノの禁欲的な音楽は、逆説的に猛烈な人間臭さが漂い、この空気を嗅ぎ取ってしまうと、もう後戻りの出来ないトリスターノ的アリ地獄へと誘われてしまうのだ。 話が飛んでしまうが、私がドイツのテクノバンド、クラフトワークに愛着を感じるのも同じ理由にある。 彼らが機械を装い、正確無比なマシンに同化しようとすればするほど、彼らの生真面目過ぎるところが逆説的にユーモラスにも感じ“クスッ”と笑みを漏らしてしまうことがある。 クラフトワークの場合は、ユーモアのようなものを感じるが、 トリスターノの場合は、執念のようなものを感じる。 どこまでもヤバい、ほとんど「ジャズのマッドサイエンティスト」と呼んでも差し支えの無いほどの妥協の無い姿。 無駄のない正確な音列の中からは、トリスターノという一人の孤高な男の生き様が見え隠れする。 日本では、トリスターノの影響をモロに受けていたギタリスト、高柳昌行にも同じ匂いが感じられるが、彼らの音に対する姿勢は、音楽好きな人間にとっては、類稀なる精神と魂のドーピング剤にもなるのだ。 ただし、劇薬でもあるので、そうそう気軽に摂取できるものではないのだけど……。 |
| (2010/01/17) |
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もし、トリスターノがもう少し後の時代に生まれていたら……。 今頃は、おそらく自宅やスタジオで、シンセやパソコンを駆使したレコーディングの鬼になっていたのかもしれない。 と、そんなことを夢想させるのが、彼の代表作『奇才トリスターノ(邦題)』のA面だ。 A面は、発表当時から論争の的となっていたという、実験色の強い内容だ。 すなわち、録音したテープのスピードの操作と、ダビングしてピアノを重ねる多重録音という手法。 トリスターノほどの腕前なのだから、単純にテンポを速めて弾けば良いだけなのに、なぜテープの速度を速めたのだろうと最初は訝しく思った。 というよりも、これらのことって、生演奏・即興が主体のジャズからしてみれば、かなり邪道なことなんじゃないだろうか?と、ジャズに入門したての頃の私は思っていた。 しかし、聴いているうちに分かってきたが、テープの回転速度を速めて彼が求めたことは、“テンポ”ではなく、“ピアノの音色”だったのではなかろうか。 録音したされたテープのスピードを速めて再生すると、曲のテンポが速くなることは言うまでもないが、音色も変化する。 ピッチが高まり、ピアノのふくよかな倍音の要素が減少するかわりに、鉱物のように、固く黒光りを放つ音色が生まれるのだ。 きっと、トリスターノは、この音色が欲しかったのだろう。 そして、この音色こそが、自分が紡ぎ出す、甘さや情緒を排した厳しいメロディラインに相応しいのだと直感的に感じていたのかもしれない。 《ライン・アップ》や《東32丁目》で聴くことのできる、固く締まった硬質なピアノの音色は、あきらかに彼独特のアドリヴ・ラインとピッタリとマッチしている。 自分が弾いたピアノの録音に合わせながら、ピアノを重ねる多重録音。 ビル・エヴァンスが『自己との対話』で行っていた手法を早くも彼は行っているが、他のピアニストと共演せずに、自分一人で音を重ねるという孤独な作業を選んだトリスターノは、きっと自分以外の人間のリズム感覚を信じられなかったからなのかもしれない。 私がそう推測するのは、以下の理由による。 トリスターノが自分の弟子のリズムセクションに要求したのは、ベースもドラムも、余計な装飾音をや“リズミックな遊び”を排し、徹頭徹尾イーヴンに4つを刻むことだったと言われている。 まぁ、ピーター・インドのベースなんかを聴いていると、この制約とストイックさの中からも滲み出るうねりが、逆に奇妙な恍惚感を聴き手に与えているんじゃないかと思うのだけど、それはさておき、トリスターノはリズムに対しては非常にストイックで厳格な眼差しを持っていた。 遊びのない正確なリズムを下敷きとして、己の理論にのっとったアドリヴを展開させようとしていたのだろう。 ひょっとしたら、ベースもドラムも、単なるリズムマシンと考えていたのかもしれない。 晩年に吹き込んだピアノ・ソロ『ニュー・トリスターノ』の厳しいピアノを聴くといつも思うのだが、結局トリスターノが信頼出来る理想のリズム感の持ち主は、トリスターノしかいなかったのかな?と思ってしまう。 『ニュー・トリスターノ』は、“たまたま”ソロで録音しただけのアルバムなのかもしれないが、どうも私にとっては、信頼出来るリズムキーパーが結局は見つからなかったために(あるいは彼のもとを離れていってしまったために)、“とうとう”一人で録音するしか方法がなくなってしまったように感じられるのだ。 自らが吹き込んだピアノの音源に、テンポをわずかにズラしながら自分自身のピアノを重ねた《レクイエム》に《ターキッシュ・マンボ》。 この微妙なリズム感覚に合わせられるのは、そして、彼の狙いを理解して微妙なズレを“正確に”演出出来るピアニストは自分自身しかいなかった。 だから、彼は孤独な多重録音という作業を選択したのではないか? 音色とリズム。 彼の行った多重録音やテープ操作は、機材の性能に振り回された“手法のための手法”には非ず。 DTMやシンセも無い時代、彼が欲した上記2要素を実現させるためには、当時はこの方法しかなかったのだ。 だから、レコーディングのハードや機材が当時と比較すると格段に進歩している現在においても彼が活動していたとしたら、きっと、レコーディングの鬼になって、次々と興味深いサウンドを生み出していたんじゃないかな、と私は夢想するのだ。 とにかく、ジャズ的な文脈から見ると、ちょっと変わった手法で録音された『奇才トリスターノ』の前半(A面)だが、彼の思い描いたサウンドの輪郭が朧気ながらも理解出来るので興味深い。 音楽自体も、スリリングでとてもテンションの高い内容だが、難解ではないし、比較的聴きやすい内容となっている。 ただごとではない切迫感が続く『奇才トリスターノ』のA面。 これと、晩年のソロピアノ集『ニュー・トリスターノ』を聴けば、トリスターノという音楽家が求めていた音楽像が浮き彫りになると思う。 語弊はあるが、一言で言ってしまえば、“クールでおっかねぇ〜世界”。 クール派の始祖とはいえ、彼の音楽の肌触りは表面的な音のクールネスとは裏腹に、かなりおどろおどろしい情念が背後に感じられる。 マイルス・デイヴィスは電気楽器を導入し、大編成でグチャグチャとおどろおどろしい世界を描き出したが、トリスターノの場合はピアノ一台、もしくはピアノとテープ操作だけで、同じレベルのおどろおどろしい世界を作り上げてしまっているのだ。 もちろん、エレクトリック時代のマイルスと、トリスターノが描こうとした音世界は別モノなのだろうけれども、私には“高密度なサウンドの凝縮感とテンション”は同質なものに感じる。 アルバム後半(LPでいうとB面)は、リー・コニッツを交えたライブレコーディングだ。 ピンと張りつめた緊張感は、当時のクール派の演奏そのものだが、いかんせん前半が張りつめすぎていたためか、後半のライブは、いくぶんリラックスして聴こえる。 《ジーズ・フリッシュ・シングズ》、《ユー・ゴー・トゥ・マイ・ヘッド》、《オール・ザ・シングズ・ユー・アー》、においての、コニッツのプレイは素晴らしい。 冷んやりと、冴え渡ったアドリヴを楽しめる。 個人的には、A面はトリスターノ、B面はコニッツを楽しむためのアルバムだと思っている。 |
| (2003/07/21) |
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