COOL JOJO (Three Blind Mice) |
| - 高柳昌行 |
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高柳昌行 (g) 弘勢憲二 (p,el-p) 井野信義 (b) 山崎康弘 (ds) 1979/12/03-05 (Tokyo) |
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惜しい! 何がって? リズムの弱さだ。 レニー・トリスターノを筆頭とするクール派のサウンドが大好きな私にとっては、この演奏、リズムが強ければ、とても良い内容に仕上がっていたのに、と非常に惜しく感じる。 ギタリスト高柳昌行が、果敢にもレニー・トリスターノを中心として生み出された“クール派”のサウンドに挑戦したアルバム『クール・ジョジョ』。 名盤の誉れの高いアルバムだし、私もそれを認めるに吝かではない。 しかし、認めるところは認めつつも、あえて、私がこれを聴くたびに感じる違和感のようなものを書いてゆこう。 まず前提として、私はトリスターノ派独特の、あの“うねうねした旋律”が大好きだ。 同じ“うねうね”でも、パーカー、ガレスピー、パウエルらの、ある種の明快さと躍動感の伴った“うねうね”とは違い、クール派の“うねうね”は、旋律が屁理屈をこねているような、なんともいえぬ暗さと内省さが伴っていて、本当はドッカーンとはじけたい欲求を無理矢理、強固な音のロジックの中に封じ込め、ゆえにそこから醸し出るえもいえぬストイックなサウンド・テイストが、じわじわと聴き手を、いや、少なくとも私の聴覚を疼かせるのだ。 もちろん、クール派のサウンドは、万人受けはしないと思うし、分かる人にしか分からない探求的、かつ局地的なジャズ表現だと思ってはいる。 私も、リー・コニッツの『サブコンシャス・リー』の良さに目覚めるまでは何年もかかったし、コニッツといえばエモーショナルな『モーション』のほうがずっと好きだった。 しかし、あの、『サブコンシャス・リー』を筆頭とするクール派サウンドの“ストイックな美”にいったん目覚めると、もう後戻りは出来ない。 “あのサウンド”、“あのテイスト”が耳にこびりついて離れなくなる。 『サブコンシャス・リー』というアルバムは、間違いなく私の好きなジャズのアルバムのベスト10には入ることだろう。 だから、ギタリストの高柳昌行が、ピアノトリオをバックに『サブコンシャス・リー』を演奏する『クール・ジョジョ』(ジョジョは高柳の愛称・クールジャズを演るジョジョといった意味ですね)を聴いたときは、「おーっ、あのサウンドだ、あのテイストだ、あの“うねうね”だ!」と興奮したものだ。 しかも、冒頭の《フロッギー・デイズ》のテーマは、ギターとピアノのユニゾンで奏でられるているが、サックスの「うねうね」さとは違い、この2つの楽器のブレンドが生み出す音色と、テーマのうねうね旋律は、まるで、バッハのオルガン曲のような荘厳な響きにすら感じた。 しかし、その興奮のボルテージも、高柳のギターのアドリブにさしかかったあたりからジョジョに(洒落です)下がってきた。 なにかが違うのだ。 妙な、ゆる〜い、違和感を感じはじめたのだ。 むろん、本作のリーダー、高柳のギターや、弘勢憲二のピアノ(曲によってはエレピ)は素晴らしい。 見事にトリスターノのクール派のテイストを咀嚼している。 しかし、惜しむらくは、リズムの弱さ。 特に、ドラムがひどい。 躍動感とストイックさの中間をいく、非常に中途半端なドラミングが、高柳のデリケートなギターのサウンドを殺してしまっている。 シンバルがしゃんしゃんとウルサいのだ。ボリュームが大きいという意味ではなく、耳障りなウルサさ。妙に、こちらの耳に違和感を感じさせるシンバル。だから、耳障り。ゆえに音量の問題以前に、ウルサく感じる。 ダイナミックな叩き方をしているわけはない。 自由奔放な叩き方をしているというわけでもない。 むしろ、ストイックな叩き方を目指しているようにも聞こえる。 しかし、このストイックさが中途半端。 だから、そんなに派手なドラミングではなくとも、クール的な独特のテイストから浮いてしまい、したがって妙に耳に違和感を感じる結果となるのだ。 「クールだから、なるべく遊ばずにストイックに」という考えがあったのだろう。 だから、派手なオカズやフィルインは忠実に省かれている。 しかし、だからといって、徹頭徹尾、リズムキープに徹しているというわけでもないドラミングなのだ。 派手な“遊び”を入れられないかわりに、ライドシンバルの叩く位置を変えたり、もう一枚のシンバルを叩いたりと、音色面で変化をつけようとしていることが容易に推察できる。 本人は地味なドラミングの中の、ささやかな自己表現だと思っているのかもしれないが、結果は逆だ。 悪い意味で、ドラムが浮いてしまい、くわえて、クリアな録音ゆえのシンバルの音が鮮明となり、高柳のギターがドラムよりも奥に引っ込んでしまう結果となった。 1曲目の《フロッギー・デイ》。 少しずつ叩く位置を変えた音色の異なるシンバルが鳴り続け、ときおり短いスネアのオカズが入る。 この繰り返しが続く。 リズムキープは正確だが、中途半端な色気を出すぐらいならば、もっと裏方に徹したほうが演奏自体が、それこそクールに締まったに違いないと思うと残念でならない。 オカズのパターンもワンパターンだ。 何小節おきかに、タタタタッと短いフィル・インがはいるのみ。 一度このパターンに気がついてしまうと、ドラムばかりが気になってしまい、肝心の高柳のギターサウンドに耳がいかなくなる。 他の曲も似たりよったりだ。 いずれにしても、ドラムが中途半端に目だってしまているために、サウンドの一体感が希薄だ。 思いっきり前に出て高柳を煽るか、職人のように粘りのある刻みに徹して欲しかったと思うのは私だけか。 くわえて、スティックが災いしているのでは? せっかくの高柳の繊細かつ緻密なギターを、アタックの強いスティックで叩かれたシンバルの音で台無しにしてしまっている。 たとえば、レッドガーランドのシングルトーンを見事に引き立てた、職人、アート・テイラーの腰のあるブラッシュ・ワークのような音色の選択をしないのはなぜだろう? そう、この演奏に求められるは、シンバルの音色ではなく、ギターを強く引き立てるリズムの“腰”なのだ。 くわえて、この演奏テイストに求められるは、スティックよりはブラシのほうがよりデリケートな旋律が引き立つ。 極端なことを言ってしまえば、このアルバムの演奏は、全曲、ブラシに徹しても良かったのでは? ドラムの悪いところばかり書いてしまっているが、もちろん名盤の誉れの高い『クール・ジョジョ』のこと、良いところもたくさんある。 やはり、高柳のストイックかつ、「狂気の湯気」がモワっと漂うギターは素晴らしい。完璧にクール・スタイルを咀嚼しきっている。 ただ、残念なことは、己のギターだけではなく、リズムセクションにも演奏に臨むコンセプションを徹底させて欲しかった。 せっかくのギターの魅力が、ドラムのお陰で半減してている。 ピアノの弘勢憲二も良い。 特に《ハイ・ベック》のエレピが素晴らしい。 クール・サウンドには、煎餅のようにパリッとしたピアノも似合うが、意外に仙台のお菓子“萩の月”のように、トロリと甘い触感の音色も、しっくりハマることに気づかせてくれる。 曲調によって音色を変えるセンスはさすが。 この音色の感覚、ドラムにも活かして欲しかった。 クール・ジャズのドラムとベースは単調で地味だなと思っていた人でも、この『クール・ジョジョ』のリズムセクションを聞けば、逆説的にピーター・インドのベースや、アーノルド・フィシュキンのドラムが、いかに腰のあるリズムを生み出し、しっかりと演奏の骨格を築き上げていたかが分かる。 そういった意味では、このアルバムはクールジャズにおいては、うねうねした旋律のみならず、強靭でストイックなリズムこそが最重要だという重要な示唆を与えてくれる。クール派特有の旋律が引き立つのは、リズムセクションの優秀さがあってこそなのだ。 たしかに、このアルバムのドラマー山崎康弘は、多少リズムの脇が甘い気がしないでもないが、技術面においては、何ら問題のあるドラマーではないと思う。そもそもの資質が突進型の推進力を生み出すスピード感のあるリズムよりも、中空に拡散してゆくパルスを生み出すほうが得意なタイプに感じる。 よって、このようなスタイルのまま、見よう見まねで“クールっぽく”叩いてみたところで、クール的な肌触りが生まれるわけはない。 リーダーからの指示がないまま、グループのアンサンブルの向かう方向をよく飲み込めないまま叩いてしまっているのかもしれない。 クール派の親分、レニー・トリスターノは、リズムセクションに対しては、堅実でイーヴンな4ビートを求めたという。 跳ねたアクセントや、余分な装飾音符を奏でるのを禁止し、いってみればリズムセクションに対しては、リズムマシーン的な役割を厳しく要求したそうだ。 ドラマーとベーシストにとっては、演奏に制約が生まれるわけだ。出来ることが限られてくる。 しかし、その分、出来ることだけに全精力が注入せざるを得なくなる。 この制約から生まれる異常な集中力と、高密度なリズムの求心力からは、ある種、異様かつ威容なリズムフィギュアが形成され、単なる「4つ刻み」を超えた強靭なグルーヴが生まれ、クールの「うねうね旋律」をより一層引き立てるスピード感が生まれるのだ。 きっと、トリスターノはこのことを分かっていたに違いない。 メロディ面のみならず、リズム面もきっちりと活かしてこそのクール・ジャズだということを。 高柳昌行は、リズムセクションに対して、どれほどの演奏クオリティを要求したのだろうか? 彼のギターは間違いなくクールだが、良くも悪くも『クール・ジョジョ』というアルバムは、いかにトリスターノ門下生たち、クール派のリズムセクションが優れていたのかを証明するアルバムとなってしまった。 |
| (2004/11/04) |
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