SAXOPHONE COLOSSUS (Prestige) |
| - Sonny Rollins |
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Sonny Rollins (ts) Tommy Flanagan (p) Doug Watkins (b) Max Roach (ds) 1956/06/22 |
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おそらくは多くのジャズファンにとっては、耳タコな名盤だろう。 「耳タコ盤」には、耳タコになるなりの理由があるわけで、当然ながら、リスナーを魅せてやまないサムシングがふんだんに盛り込まれているゆえに、何度聴いても飽きない、繰り返しの鑑賞に耐えうる魅力がある。 『サキソフォン・コロッサス』こと『サキコロ』は、繰り返しの鑑賞に耐えうるどころか、聴くたびに新たな発見と驚きを約束してくれるアルバムなのだ。 最初はロリンズのサックスに魅せられることだろう。 豪放なブロウ。 それと裏腹に繊細な一面も垣間見ることも出来る。 ユーモアが盛り込まれている上に、アドリブの旋律も魅力的な瞬間が目白押し。 しばらくすると、トミー・フラナガンの役割どころをわきまえたセンスの良いピアノや、よく聴くとかなり複雑なリズムをたたき出しているマックス・ローチのドラムにも魅せられるようになってくることだろう。 サックス、ピアノ、ドラムスと、鑑賞の際の「耳の焦点」をどこにフォーカスするかによっても、聴こえ方が変わってくるし、新しい発見もある。 だから、嬉しくなる。 だから、また聴く。 次第に細かいところにも気がつくようになる。 《セント・トーマス》は最初のテンポよりも後半のほうが走っているとか、《ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラブ・イズ》に出てくるロリンズのモールス信号フレーズとか、《モリタート》の後半にも一瞬モールス信号フレーズが出現するなど。 音的な発見と同時に、活字を通してジャズの情報を仕入れている人は、「カリプソ」、「4バース」、「テーマティカル・インプロヴィゼーション」、「マック・ザ・ナイフ」、「ポリリズム」などといった用語の知識も増えてゆき、それを確認するために、また聴くという「聴く循環」が繰り返され、いつのまにか愛聴盤の1枚に加わるという寸法。 この状態がしばらく続いた後、さらに新たな発見、あるいは新しい驚きを感じるのが、おそらくは、ダグ・ワトキンスのベースなのではないだろうか。 ダグ・ワトキンスのベースこそが、ある意味「サキコロ最後の秘境」でもあるのだ。 まず、筆頭に上げられるのはなんといっても《ブルー・セヴン》のイントロだろう。 これは、寺島靖国氏がご自身の著書でも指摘されているように、粘りのあるノリと、ブ厚い音色が魅力だ。 ワトキンスは、ポール・チェンバースとは親戚関係にあることが関係あるのか、ないのかは分からないが、タイプ的には二人は似たベースを弾く。 ところが、チェンバースのベースは比較的あっさりしたノリなことに対して、ワトキンスのベースはもう少し重たいグルーヴ感がある。 ソニー・クラークのピアノのノリを「後ろ髪を引かれるような」と形容したのは、故・油井正一氏だが、まさにこの形容がそのままワトキンスのベースのノリにも当てはまるのだ。 よって、彼の特徴的なノリを味わえるのは、ほかの楽器がかぶさっていない《ブルー・セブン》のイントロが最適なのだ。 重たく引きずるような4ビートの刻みが始まり、少しあとにマックス・ローチのハットがかぶさる。 しばらく続くこのリズムがなんともスリリング。 不機嫌なアクビをしているようなロリンズが断片的に短いフレーズを織り交ぜながら、次第に演奏としての体をなしてゆく様は、まさに「曲」を聴く悦びよりも、「演奏」を体感する歓びだ。 そして、もう一つ。 これはあまり語られることがないのだが、《ストロード・ロード》が良い。 スリリングな瞬間は、テーマが終了した直後に現れる。 ドラムとピアノが抜けるのだ。 伴奏はベースのみ。 つまりリズムを刻むのもベースのみの状態になる。 ロリンズのテナーをグイグイと強靭なラインで牽引してゆくワトキンスのなんと力強いことか。 スピード感とともに、安定感をも感じる素晴らしいベース。 少し後にピアノとドラムがほぼ同時に演奏に参加するが、このすべての音が一つになる瞬間もカッコいい。 まるでコンバトラーVのような合体ロボ(古いな)の合体が終了し、エネルギーを帯びた全身がキラリと光る瞬間を目の当たりにするようだ(なんのこっちゃ)。 ベースはジャズの心臓だ。 演奏のエンジンだ。 このことを実際の音で理解するには《ブルー・セヴン》のイントロや、《ストロード・ロード》のテーマ終了直後を聴けば良い。 まだまだ「耳タコ名盤」には聴きどころは隠されている。 |
| (2003/05/14) |
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このアルバムほど、マニアと初心者の間では、感じ方の異なる作品はないのではないだろうか。 私がこのアルバムを聴いたのは、ジャズを聴き始めた本当に初期の頃だった。 ジャズのジャの字も分からないと言っても良い状態で聴いた。 そんな私でも、「良い!」と感じた。 このときに直感的に感じた「良さ」は、音楽のパワーを真正面から受け止められたという感触に近いものだったので、そのときの自分の感じた直感は今でも大事にしたいし、ジャズを聴きまくって、楽器演奏にまで手を染めている今でも、このアルバムは本当に素晴らしいアルバムだと思っていることには変わりがない。 しかし面白いことに、入門したての頃に抱いた感想と、現在聴いたときに感じる感想が、面白いぐらいに違うのだ。 今では、「結構ハードで、怖いアルバムじゃん」だと思っている。 このアルバムでとっつきやすい曲はといえば、おそらく多くの人は《セント・トーマス》と《モリタート》の2曲を挙げるだろう。 ともに、陽気で楽しげなメロディ。そして、誰もが口ずさめるような親しみやすいテーマを持つ曲だ。加えてロリンズの逞しいテナーのサウンドが聴く人の心を鷲掴みにする。 私も、これらを聴いて、ジャズに対する「辛気くさい、難解そう」といったイメージが払拭された記憶がある。 ところが、楽しげな印象を受けるのは、実は「テーマ」のメロディに負うところが大きく、肝心なアドリブの部分に突入すると、かなりキワドイことをロリンズはやっているのではないか?と気付くようになったのは、ジャズを何年も聴いてからのこと。 つまり、表面的な「聴きやすさ」とは裏腹に、演奏中に起きているシビアな出来事に気が付くには、かなりの時間を要したことになる。 陽気なテーマとは裏腹に、アドリブのパートに突入すると、かなり緊張感の漂う引き締まった演奏が繰り広げられているのだ。 この緊張感は、恐らくはソニー・ロリンズというサックス奏者の「即興に臨む姿勢」によるものだ。 言うまでもなく、ジャズという音楽は「即興」の占める割合が高い。 しかし、最初から最後まですべてが即興演奏ということは、あまり無い。 多かれ少なかれ、ほとんどのジャズマンは「ストックフレーズ」を持っている。 「このコード進行の時は、このメロディを吹こう」とか、 「このスケールのときは、こういうアプローチをしよう」とか、 「この曲を演奏するときは、このフレーズを混ぜよう」とか、 「しまった、手癖で同じ音符を吹いちゃったよ」、……などなど、 既に、体内、あるいは、脳内に既にインプットされた音を意識的にせよ無意識的にせよ、引っ張り出すことが多い。 しかし、ロリンズはあえて、なるべく「ゼロ」の状態、「無」の状態から、即興演奏に臨もうとしている。 特に《セント・トーマス》でそれが顕著なのだ。 自作曲なのに、それすらも忘れたかのように、限りなく先入観や情報を捨てた状態に自らを戻した上で、この世で初めてのメロディを生み出そうと努めている。 だから、必ずしも演奏が流暢には進まない。 考える。立ち止まる。 間が空く。 時間とリズムだけが、淡々と進行してゆく。 再び吹き始める。 まるでボクサーが軽いジャブを放つように、メロディとも音塊ともつかぬ音の一筆書きを中空に放つ。 慎重に曲に臨むアプローチを手探りしている。 既に演奏が始まっているのに、彼は同時進行で、今この瞬間に、この曲をどう即興しようかと考えている。考え考え吹く。 じょじょに演奏のカタチが整ってくる。 次第に滑らかで魅力的なフレーズが飛び出してくる。 このプロセスが面白い。 スリリングで、手に汗握る。 このような視点で再度聴くと、耳タコだったはずの《セント・トーマス》にもまた新たな楽しみが見えてくるだろう。 表面的な明るさとは裏腹に、シビアな即興演奏の片鱗が見えてくるかもしれない。 それともうひとつ。 ラストのナンバー《ブルー・セブン》についても書いておこう。 この曲は、ダグ・ワトキンス奏でるベースの音色と、粘りあるノリが魅力のナンバー。 長い間私は、ベースばかりを中心に鑑賞していた。 しかし、最近になって、ようやくこの曲で聴くことの出来る、デリケートさに裏づけられたロリンズの豪放なサックスに痺れている。 《ブルー・セブン》における、ロリンズのテナーの「緊迫感」は相当なもの。 ピリっとした辛口の空気が耳をひきつけて止まない。 冒頭のベースソロからの導入、追いかけるように入ってくるローチのハイ・ハット。 そーっと、周囲の様子を伺うように慎重に吹き始めるロリンズのテナー。 演奏導入部の緊迫感は、いつ聴いてもたまらない。 この曲、テーマらしきテーマが無い。 ロリンズは、フレーズの断片を小出しにしながら、全体の雰囲気を醸成させているような感じがする。 ブルース・フォーマットを土台(原稿用紙)にして、気の向くまま、取りとめもないエッセイを綴っている(演奏している)といった趣きだ。 ただし、こまごまとしたテーマを決めずに、気の向くままに書いた文章が、きちんと読者に「読ませる」内容になるということは、大変な力量が必要とされるわけで、ヘタな素人が文豪を気取ってトライをしてみたところで、単なる自己陶酔の惨憺たる結果に終わることは火を見るよりも明らか。 ロリンズのように抜きん出た表現力の持ち主でないと、なかなか、人様に聴かせられる演奏にはなりにくい。 ロリンズの吹くフレーズを追いかけてみよう。 ブルース(変形ブルース)なのだが、「いかにも」なブルースを感じさせるフレーズは注意深く避けているようにすら感じられる。 《セント・トーマス》や《ストロード・ロード》で炸裂させた、分かりやすい「キメ・フレーズ」のようなものも、あまり出てこない。 あらわれては消え、消えてはあらわれる、抽象的なフレーズの断片。 茫洋とした、ちょっと捉えどころのないフレーズの組み立ての中にも、きちんとロリンズらしい味わいを感じさせるのはサスガだ。 ジャズのブルース特有の「ツー・ファイブ進行」を簡略化することによって、曲の流れやメリハリを希薄化させ、その大きな進行の流れの中で自由に音による一筆書きを楽しんでいるように感じられる。 そして、どちらかというと抽象的な短い断片的なフレーズが多いことと、サックスの吹奏のボルテージが抑え気味になっている点、そして、つかず離れずの冷静なマックス・ローチのドラミングの効果も手伝ってか、この演奏を貫くトーンは、かなり緊迫したものとなっている。 もちろん、ロリンズ特有の歌心が随所に溢れているので、決してメカニカルなフレーズのオンパレードというわけではない。 むしろ、ボルテージはそれほど高くないが、独り言を呟いているような感じ、あるいはサックスのトーンが「ほあぁぁ〜」とアクビをしているようなので、ロリンズらしいユーモアも感じることが出来る。 ブルースを感じさせるベタなフレーズにオブラートをかけるがごとくのアドリブだが、後続するトミー・フラナガンのピアノソロは、ロリンズとは対照的に、ベタなくらいにブルージーなフレーズが盛り込まれている。 ほっと安心する瞬間だ。 《ブルー・セブン》は、ブルース形式の曲だ。 キーは、「F」。 ただし、同じFでも、ジャムセッションでよく演奏される《ストレート・ノー・チェイサー》や《ビリーズ・バウンス》、あるいは《ナウズ・ザ・タイム》のような、一般的な「ツー・ファイブ型」のブルース進行ではない。 コード進行が少しいじられたブルースになっている。 いじられている、というよりは、より「単純化」されているといったほうが適切か。 ロリンズの茫洋としたソロは、掴みドコロがない。起承転結がハッキリして、ある意味メリハリの効いたコード進行よりも、コードチェンジの少ないフォーマット設定の元、より自由度の高いアドリブを取ろうという意図を感じる。 彼の狙いは、おそらく小節単位の細かなアドリブ展開よりも、もっと長いスパンで小節を見越した、悠久ともいえる息の長いメロディ展開なのだろう。 いずれにしても、従来のブルースとは違った雰囲気、あえて具体的なメロディを曖昧に抽象化したような響きは、最初は違和感を感じるかもしれないが、ロリンズの演奏意図が見えてくると、鑑賞の面白さにも拍車がかかる。 《セント・トーマス》や、《モリタート》の陰には、このような斬新な試みも隠されていたのだ。キャッチーな演奏の中にさり気なく潜む実験精神。 最初は楽しく。しかし、慣れてくると、キリリとした苦味の成分も含まれていることに気づく。 「名盤、かくあるべし」。 50年以上も前に録音された名盤の無言の主張が聞こえてくる。 |
| (2009/10/21) |
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