JOSHUA REDMAN (Warner Bros.) |
| -Joshua Redman |
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Joshua Redman (ts) Kevin Hays (p) except #6 Mike LeDonne (p) #6 Christian McBride (b) Gregory Hutchinson (ds) except #3,6 Clarence Penn (ds) #3 Kenny Washington (ds) #6 1992/05/27 #6 1992/06/04 #3 1992/09/15 #1,2,4,5,7,8,9,10,11 |
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NHKの連続ドラマ小説『純情きらり』は、なんだかんだいいながら、結局全話を観てしまった。 正直、愛憎半ばするドラマで、題材は面白く興味深いのだが、ストーリーに関しては、雑なストーリーと脚本ゆえか、かなり大雑把で大味な内容に感じた。 もっとも、ストーリー展開が大味ながらも、それゆえに続きが気になり、マンガ雑誌を毎週買ってしまうような感覚で観ていたわけだから、結局「面白かった」ということなのだろう。 結局、大きな成功も脚光を浴びることもなく(瞬間風速的に注目されることはあるが、それが次のステップには繋がらない)、戦争などの不可抗力な要因に振り回されっぱなしで、結局最後は、生まれた子供も抱けずに死んでしまう宮崎あおい、いや桜子という女の子の生涯はなんだったの? な内容だったが、必ずしもハッピーエンドでも順風満帆な一生で終わらない朝の連ドラもたまにはいいのかな? と感じたこともまた事実。 もう少し彼女を取り巻く人物や、環境を丁寧に細やかに描写すれば、もっと奥行きのあるドラマになった可能性があったのかもしれないのにな、と思うと少々残念。 どんなドラマなの? と観たことの無い人には、「紆余曲折、波乱万丈の生涯。はい、以上!」と簡単に総括出来ちゃうところが、ストーリーテリングの厚みの無さなんだろうなぁ(笑)。 この物語は、ジャズピアニストを目指す女の子が主人公なドラマなだけあって、物語中にはいくつかのジャズ曲が登場していた。 といっても登場するレパートリーはそれほど多くない。 一番多いのが《セントルイス・ブルース》。 あとは“ジャズ風”にアレンジされた《春の小川》だったり、《花》だったり。 あ、そうそう。《オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート》を忘れていた。 これもよく演奏されていた曲の一つだった。 この曲、好きです。 私には、この曲は、とても哀しい曲に感じる。 「え? この曲おもいっきりメジャー調じゃない?どーして哀しいの?」 という声も聞こえてきそうだが、これって西洋音楽教育の弊害かもね。 長調は「明るい、楽しい」感じ。 短調は「悲しい、暗い」感じ。 そう学校で習ったと思うが、和音の響きと、言葉のイメージがセットで我々に刷り込まれてしまっているのではないか? 長調だから「明るい」曲。 これって、あまりに単純な分類の仕方だし、その分類に則って感じる感受性もお粗末なものだとは思わないか? 私は、メジャーだから明るい、マイナーだから暗いという感じ方は、あまりしない。 もちろん、マイナー(短調)は暗い印象を抱くことは多いが、すべての曲がそうだとは限らない。 メジャー(長調)の曲も同様。 たとえば、演奏者の表現次第で、鑑賞者が受ける印象はガラリとかわる。 「世界一悲しいマクリーンの《センチメンタル・ジャーニー》」 と評したのは、「メグ」のマスター寺島靖国氏だが(from『辛口ジャズノート』)、たしかにマクリーンが気だるく吹くこの曲はメジャーだからといって「明るい」「陽気だ」とは感られない。 だいたい人間の感覚は複雑なもので、単純に「明るい」「暗い」の2通りのパターンでは割り切れないものなのだ。 おそらく、皆さんもそうではありませんか? 毎日、「ああ楽しい(嬉しい)」と「ああ悲しい(憂鬱)」の両極端な2種類の感情で生活しているわけじゃないでしょう? それはオン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリートにもそのまま当てはまる。 作曲された原曲の音符通りにそのまま弾けば、明るく楽しい曲調になるであろうことは想像に難しくない。 しかし、作曲され譜面に封じられたこの明るさは、きっと絶望の末にふっと湧いてきた明るさなんじゃないかと私は勝手に想像している。 苦悩や憂鬱がベースになった明るさ。だから、ふとした行間(音間?)に漏れるえもいえぬ「憂い」のニュアンスが、この曲に独特な色彩と深みを与えているんじゃないかと感じる。 根っからの明るさではなく、長い苦悩が吹っ切れたときに、まるで曇り空の隙間から差し込む光のような明るさ。明るいは明るいかもしれないが、単純な明るさとは違う、ということだ。同じ午後の日差しでも、夏の日差しと冬の日差しとでは、風情がまったく違うように。 もっとも、多くの演奏者がこの曲を演奏し、多くの歌手が歌っているので、多様な曲の風景がある。 根っから陽気なものから、陰影に富んだ表現のものまで様々なバージョンがあることはたしか。 この「明るいと感じる曲」をどう料理するかは、演奏者の感性、力量次第なのだ。 《サニー・サイド〜》以外にもう一つ例を挙げるとすると、私が好きなスタンダードナンバーに『エヴリタイム・ウィ・セイ・グッバイ』という曲がある。 これもメジャーだから明るい曲調とはとても感じられない複雑な陰影を持った曲だ。 もっとも、ロリンズの演奏は、かなりハイテンポで能天気だから陽気に感じるかもしれないが、コルトレーンやコニッツをはじめとして、多くのジャズマンの演奏は、音の端々に哀しみを携えていることは疑いようもない。 閑話休題。 さて、《サニー・サイド〜》だが、リロイ・ヴィネガーの『リロイ・ウォークス』が私は好きだ。 ヴィクター・フェルドマンのヴァイブとコンテ・カンドリの音色のブレンドが、その名のとおり明るい日差しの通りを連想させて、楽しげではあるが、やはり陰影に満ちたテーマの旋律は単なる明るさとは違う、明るい通りから枝分かれした陽の当たらない裏通りをも連想してしまうのは、私の深読みのし過ぎ? それともう一つ。私が愛聴しているのがジョシュア・レッドマンのバージョン。 ただ、この演奏は私にとっては愛憎半ばする。 好きだが、嫌いなところもある。 嫌いなところは、要するに一言で言ってしまうと「ふざけ過ぎ」。 自らのサックスの技量のデモンストレーションも兼ねた演奏なんじゃないかと思うほどサービス精神と、聴衆を喜ばせようという色気から発する必要以上のサービス精神。 気持ちは嬉しいが、ちょっとやり過ぎ。ゲップが出ます。 パーティの時など、目の前で演ってくれるのは楽しいのかもしれないが、「聴くだけ」の CDで、この過剰な演出の演奏を聴いていると、ちょっとツラい。 技量があることは分かるし、オーソドックスな吹奏からいきなりフラジオ(サックスで倍音を出すテクニック・オクターブ高い音が出る)に駆け上がるというモードチェンジの俊敏さもスリルがあって楽しい。 しかし、トゥ・マッチなんだよね。聴くほうとしては。 もちろん、良い音色だし、良いフレーズも多いし、楽しいし、なにしろ本人自身がこの曲の演奏を楽しんでいることが伝わってくる。 だから、惜しいんだよ。もっと押さえて淡々と吹いてくれれば、と思うのは私だけ? ただ、この演奏の良いところは、クリスチャン・マクブライドのベースが気持ちよいこと。スラップを効かせた2ビートで、楽しげにビートを刻み、レッドマンの語りに的確に相槌を打つサポートが見事。 また、ベースの音色も色気があってとてもよろしい。 このベースがあるからこそ、レッドマンの過剰サービスとも思える瞬間が相殺され、なにやら、しみじみとしつつも心温まるテナーとベースの会話に聴こえるのだ。 《サニー・サイド》は、滅茶苦茶陽気に、楽し過ぎに演奏するべき曲ではない。それじゃあ単なる能天気なバカだ。 少し抑え気味に、少しだけ神妙な顔をして演奏すると、演奏者独自の色合いが出る。 クリスチャン・マクブライドとジョシュア・レッドマンの会話は、あと一歩、レッドマンがもう少しサービス精神的色気を抑えてくれれば、もっと素晴らしい内容になったのに……と思いながらも、結構楽しく聴かせてもらってはいる。 なにせ、レッドマンのキャリアのごくごく初期の段階の演奏。もっともっと年季を重ね、円熟したジャズマンになった二人の《サニー・サイド》の再演を聴いてみたいものだと思う。 |
| (2007/09/09) |
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