UN'ALBA DIPINTA SUI MURI (Egea) |
| - Enrico Pieranunzi |
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Enrico Pieranunzi (p) 1998/07/19 |
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これは、かなり良い。 はじめてこのアルバムに接したときは、夢中になって、むさぼるように聴いてしまった。 エンリコ・ピエラヌンツィのピアノソロ。 1998年のウンブリア・ジャズ・フェスティヴァルでのライブが収録されたものだが、ピエラヌンツィの硬質で重心の安定したピアノが、たまらなく快感なのだ。 とくに、中低音域を中心に骨太な音が徘徊する《ブルース・ノー・エンド》を聴いたときの第一印象は、ミシェル・ペトルチアーニのピアノソロ(と多重録音)のアルバム『ノートン・ノーツ』を思い出した。 うーん、ヨーロッパ的ブルース・スケール! 音階はブルースだが、感触は非ブルース。 フレーズ中には、ブルース要素が効果的に混ぜられていつつも、ニュアンスは、どこまでも非ブルース的。 多分に気分的かつニュアンス的なブルース的な要素がきれいに排除され、クラシカルな枠組みのなかに吸収されたブルースのエッセンスが、かえってクラシカルな強度を増し、荘厳さを構築する一要因として無理なく昇華されているような感じさえする。 「アメリカ南部の呟きが、ヨーロッパのシステムに飲み込まれてしまった!」 と書くと大袈裟だが、ブルース的な音づかいが、洗練された綺麗なアクセントとして効果的に用いられていることは確か。 ほかにも、かなり理知的で素晴らしい《Blu Laggiu》や《Jazzter》の演奏にもそれが認められるが、このようなニュアンス、表現スタイルは違うが、セシル・テイラーのソロパフォーマンスを彷彿とさせるものがある。 『インデント』や『サイレント・タン』。 そう、1973〜74年あたりのセシル・テイラーだ。 テイラーもバルトークなどのクラシック的バックグラウンドの強いピアニストゆえか、ブルース感覚の表出の仕方が、土着的なストレートさは感じられない。 クラシック的なエレガンスさを交え、一種ねじくれたブルースを吐き出す。 とくに、上記2枚のアルバムには、その傾向が強い。 これらのアルバムも、ヨーロッパでのピアノソロパフォーマンスのライブ盤だが、この手のクラシックを土台にしたピアノ表現を受け入れる教養の土壌が形成されているあたりが、さすがはヨーロッパ。観客の熱狂っぷりが伝わる拍手が、決して平易とは言い難いピアノ表現に対しても送られていた。 ピエラヌンツィのウンブリアでのこのライブ盤も同様だ。 かなり深く深く深く沈み込むような抒情的ではあるが、重たいピアノソロに投げかけられる拍手は暖かく優しい。 演奏中の静寂と、演奏後のほぐれた空気。 まぎれもなく、きちんと鑑賞されている素晴らしいステージだったんだろうな、ということが音の佇まいからも想像できる内容なのだ。 リー・モーガンやマイルスが名演を繰り広げた有名曲《C.T.A》の面影がチラ見せされる《デュアリング・クルーズ・オンリー》や、アウトした和声で原曲のツー・ファイヴ進行を押しつぶしたグジャッと押しつぶしたソニー・ロリンズ作曲の《オレオ》にもニヤリとさせられるところがあり、これらはオマージュなのか、音による黒人音楽非影響宣言なのかは判別つきかねるが、これらのオリジナル引用センスは、たとえばデクスター・ゴードンやジョニー・グリフィンのユーモラスなセンスとは一線を画するものがある。 シビアな演奏が多いわりに、まったく聴き疲れをしないのは、曲の演奏時間が長すぎないところ、短い時間の中に簡潔に言いたいことがまとめられているからだろう。 いわゆる、ベース、ドラムが加わったときのリズムの揺れや、ルーズな快感とは無縁のストイックな世界だが、何度も繰り返し聴きたくなってしまうのは、ピエラヌンツィが持つ音のビジョンが明確で、かつそれを具現化するテクニックが完璧だからだろう。 一時期は、日に5回以上聴いていたことがあるが、まったく疲れない、飽きない。それどころか、アルバムが終わると、軽い飢餓状態に陥る。 それほどまでに、一つの「世界」が、ピエラヌンツィのソロピアノによって形作られているのだ。 |
| (2010/01/04) |
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