セロニアス・モンク。
1917年10月10日ノースカロライナ州ロッキーマウントに生まれる。
父はセロニアス・シニア、母はバーバラ・スフィア・バッツ。
彼の本名、セロニアス・スフィア・モンクは、父と母の名前の一部をそれぞれ取ってつけられている。
姉のマリオン、弟のトマスに挟まれた長男だ。
1922年に一家はニューヨークに移住。
新居は、サン・ホワン・ヒル、63丁目西243番地。
幼い頃のモンクは、トランペットをいじっていたが、5歳の頃、母親が購入した自動ピアノに魅せられる。またピアノを弾く姉を見ているうちに自然とピアノを弾くようになる。
11歳の時に姉・マリオンのピアノ教師ウルフ先生より正式にピアノのレッスンを受けるようになる。と同時に近くの地元の音楽院で音楽理論も学ぶ。
当時のモンク少年はメロディを一度聞くだけで苦もなくそれをピアノで再現できたそうだ。
物理や数学が得意で、黒人学生の少ないピーター・スタイヴザント高校に進学する。
教会でオルガンを弾いたり、パーティでピアノを弾いていた彼は次第に音楽の道を目指すようになり、17歳で高校を中退、福音伝導者の一団に加わり、約2年の間、全米を演奏の旅でまわる。
当時のモンクを知る人によると、その頃のモンクのピアノは凄まじいテクニックを駆使してピアノを弾いていたらしい。当時カンザスシティで出会ったメアリー・ルー・ウイリアムスの証言によると、当時からモンクは圧倒的なテクニックの持ち主ながらも、既に独自のスタイルのピアノを弾いていたという。
1936年より約2年間、ニューヨーク州の州都アルバーニでヘレン・ヒュームズの伴奏ピアニストとして過ごす。
1939年にハーレムの118丁目西210番地にある「ミントンズ・プレイハウス」で毎週水曜日の晩に行われる「アマチュア・ナイト」の優勝を何度も勝ち取り、ついにはコンクールに参加されることを禁止されてしまう。
このことが彼をプロとしてやっていく決意をさせたようだ。
翌40年、「ミントンズ・プレイハウス」のハウスピアニストとして雇わる。
ハウスコンボのメンバーは、ジョー・ガイ(tp)、ニック・フェントン(b)、ケニー・クラーク(ds)。
この「ミントンズ・プレイハウス」は、アポロ劇場の近所にあったため、出演ミュージシャンの集会所のような場所だった。
ここにアフター・アワーズに集まったジャズマンたちによって、新しいスタイルを模索するジャム・セッションが連日深夜から朝方にかけて行われる。
その時に記録された貴重な記録が『ミントン・ハウスのチャーリー・クリスチャン(Jazz Immortal)』だ(もっとも最近では、この流暢なピアノを弾いているのはモンクではなく、ケニー・カーシーだという説が有力だが)。
44年10月19日にコールマン・ホーキンスのグループで初のスタジオレコーディング。
46年、ディジー・ガレスピー楽団の初代ピアニストとなる。
47年10月にブルーノートに初リーダー作を吹き込み、同時期に近所の知り合いで、幼なじみだったネリー・スミスと結婚。
ネリ−の産んだモンクの子供は二人。
49年生まれの、現在ドラマーのT.S.モンクとして知られる息子、そして52年生まれのバーバラでだ。
バーバラは「ブーブー」の愛称で親しまれ、父の才能を最もよく受け継いだと言われたが、癌のため29歳で亡くなっった。
51年、同乗したバド・パウエルの車からヘロインが発見され(というよりも、取調べを受ける直前に、車の外に投げてくれとパウエルが包みをモンクに渡し、それを持っているところを現行犯で逮捕された)、無実ながら60日間刑務所暮らし。
くわえて、キャバレーカードを没収される。このカードが無いとクラブ出演が出来ない。
ほとんど失業状態だった彼を助けたのがネリー婦人で、生計は彼女が支えた(彼がカードを取り戻したのは1957年)。
52年、ブルーノートのラストセッションを録音した後、11月にプレスティッジと契約。
リーダー作5作、サイドマンとして2作、計7枚のレコーディングを残すが、キャバレーカードを没収されているため、ライブ活動が制限されていたのでモンクの存在は一般のジャズファンまでには認知されるまでにはいたらなかった。
54年6月パリのジャズフェスティバルに招待された際、同地でラジオ放送用にピアノソロを録音、これが後にリリースされた『ソロ・オン・ヴォーグ』だ。
このパリ滞在中に、モンクにとっては重要な出会いがあった。
パノニカ・ドゥ・ケーニグズウォーター男爵夫人との邂逅だ。
彼女はモンクの演奏をロンドンから聴きに来たのだが、彼女との出会いが、後のモンクにとっては精神的、物質的な支えになる。
55年にリバーサイドと長期契約。
リバーサイドの社長、オリン・キープニューズは、「難解なピアニスト」というモンクのイメージを払拭すべく、契約第1作には「デューク・エリントン作品集」、2作目の「ザ・ユニーク」にもスタンダード曲を配する企画を立てた。
この2作は、キープニューズの目論見どおりには売れなかったが、半年後に傑作『ブリリアント・コーナーズ』を録音。
最初の企画の逆で、モンク自身の曲をモンクに思う存分表現させたこのアルバムだ。
このアルバムのレコーディングの直前に、住んでいたアパートが全焼してしまうというアクシデントに見舞われているが、この時期にようやく周囲がモンクを高く評価しはじめる。次いで、翌年に『セロニアス・ヒムセルフ』をリリースし、高い評価を受ける。
キャバレーカードもこの時期にようやく再交付された。
ライブ活動が出来るようになったので、コルトレーン、ウイルバー・ウェア、シャドウ・ウイルソンとでカルテットを結成し、長期間「ファイブ・スポット」に出演し、大きな反響を呼び起こす。
12月には「ザ・サウンド・オブ・ジャズ」に出演。
この時期に知り合ったシグナル・レコードのオーナー、ジェロール・コロンビーの弟、ハリーと知り合い、彼をマネージャーとして迎え入れる。彼は信頼に足るマネージャーとしてモンクが亡くなるまで彼を支え続けた。
58年、ダウンビート誌にて最優秀ミュージシャンに選ばれる。
この時期よりモンクには自分が誰なのか分からなくなって街を彷徨したり、部屋の中を激しい歯ぎしりを伴って歩き続けるといった症状があらわれるようになったため、どこへ行くにも妻のネリーが同伴するようになる。
モンクカルテットのテナーサックスだが、57年12月16日の「ファイブ・スポット」の出演を最後にコルトレーンがマイルスの元に戻り、ジョニー・グリフィンが加入した。
しかし、1年後にはグリフィンは古巣のシカゴへ戻ってしまったので、次いでチャーリー・ラウズが加入。
彼は、10年以上、モンクのパートナーとして共演を続けた。
リバーサイドとの契約が切れたのち、大手コロンビア・レコードと好条件で契約。ラウズ入りのカルテットでアルバム『モンクス・ドリーム』を皮切りに、日本やニューポート・ジャズ・フェスティバルでのライブを収めたアルバムが次々に発表される。
71年、「ジャイアンツ・オブ・ジャズ」ツアーでロンドンを訪れた際、ブラック・ライオン・レーベルのプロデューサーだったアラン・ベイツと知り合い、トリオとソロをレコーディング。
このレコーディングがモンクのラスト・レコーディングとなる。
その後、健康を悪化させ、75、76年にわずかに活動したのみで、ほとんど人前に姿を現さなくなる。
75年の7月、息子のT.S.モンク(ds)、ポール・ジェフリー(ts)、ラリー・リドリー(b)のカルテットでニューヨークのフィルハーモニック・ホールに出演し、76年7月、このカルテットにロニー・ヒリヤー(tp)とロドニー・ジョーンズ(g)を加えてカーネギー・ホールで演奏したのが最後の大きなとなった。
以来、ほとんど家に閉じこもるようになったしまい、友人たちが電話で何を言っても「No」の一言しか発しなくなる。
82年2月17日脳溢血のためニューヨークで死去、享年64歳。
マンハッタンの54丁目とレキシントン・アベニューの交差点にあるセント・ピータース教会にて葬儀。
以上、駆け足でセロニアス・モンクというピアニストの生涯を追いかけてみた。
私がモンクのアルバムの中でも別格な扱いとしているものの一枚に『セロニアス・ヒムセルフ』がある。
モンク独特のユーモアの精神が陰をひそめ、かわりに極度の緊張感を強いられるこのアルバムの演奏を聴くと、とても厳かな気分になる。
これと同様な気分になってしまうアルバムがまだある。
ブラックライオン・レーベルの『ロンドン・コレクション』だ。
先述したモンクの生涯の中でも、晩年に位置する時期の最後の録音だ。
いや、晩年という言い方は適切ではないかもしれない。このレコーディングから死を迎えるまでには11年もの時間があるのだから。
ロンドンでのレコーディングの後から、76年のカーネギーホールでの演奏までの間、モンクはごくたまにだが、人前での演奏は行った。
しかし、73年のヴィレッジ・ゲイトでの演奏を最後に、もうこれ以上公の場で演奏をする意志が無いことを告げているので、実質的には、『ロンドン・コレクション』のレコーディングの後は、ほとんど演奏活動をしていないことになる。
チャーリー・ラウズは「何かきっかけがあったんだろうな。もうこれ以上ピアノを弾きたくない、と思わせるようなないかがあったんだよ」と語っている。
どういう出来事があったのかは知る術も無いが、当時のモンクは、加えて鬱病と軽い記憶喪失にかかってもいた。
彼がピアノに触れた最後の日は、1976年の7月4日のこと。
ニューヨークのピアノバー、ブラッドリーズでバリー・ハリスが出演しているときに、モンクはひょっこりと店にやってきて、2、3曲ピアノを弾くと、そのまま去ってゆき、それ以来二度とピアノに触れることがなくなった。
晩年の彼は、ニカ男爵夫人の家で、一日の大部分をベッドに横たわりながらテレビを見てすごす日々を過ごしていたようで、外界との接触はバリー・ハリスなどの一部の親しい人に限られていた。
1982年2月5日、脳卒中で倒れたモンクは、ニカ男爵夫人の家で、妻のネリーの腕に抱かれたまま息を引き取るまで「彼は最後の数年間はまずピアノを弾かなかった(バリー・ハリス)」。
『ザ・ロンドン・コレクション Vol.3』。
モンクの最後のレコーディングのこの作品。
ジャケットを見てみる。目をつぶり、陶酔の表情のモンクが大きくトリミングされている。
おそらくピアノを弾いている時の顔のアップなのだろう。
最後の録音だということを知っている私にとって、そして、この録音を最後に“ ゆっくり死んでいった”という事実を知る私にとっては、妙な先入観が働く。
眠りに入るモンク。魂が徐々に肉体を離れ、少しずつ眠りに入ると同時に、少しずつモンクの音楽が封印されてゆく前兆のようなもの……。
実際、演奏は見事なのだが、往年の彼のピアノのような表情が感じられないのだ。
ソロでの演奏は、“モンク”というプログラムが施された自動演奏のピアノの音を聴いているようだ。トリオでの演奏は、アート・ブレイキーといい、アル・マッキボンといい、淡々とサポートに徹している。
躍動感が無いわけではない。しかし、特にベースの音が顕著だが、リズム楽器の音が随分と引っ込んだ感じで、遠くから聴こえてくるような気がする。
全体的に、非常にクールダウンされたトーンのピアノとリズム。
一体、このひんやりとした肌触りは一体なんなのだろう?
そして、この肌触りは決して不快ではなく、ある種、大理石の冷たい表面に肌を触れたときのような冷たい心地よさなのだ。
じわりとした小さな高揚感もある。
もしかしたら、私が感じる飄々としたヨソヨソしさは、最初から我々聴衆に向けられて発せられた音ではないからなのかもしれない。
モンクは静かに自分と語っているのだ。
《ザ・マン・アイ・ラブ》の境地といったら……。