じつは、私はパット・メセニーのギターの音色があまり好きではなかった。
腰とアタックのないホニョホニョとした弦の音色が猫なで声のようだ。そのせいかフレーズがしっかりと頭の中に入ってこない演奏が多い。
音にガッツが感じられないからかもしれない。
たしかに暖かみと、丸みのある爽やかなギターは、耳の“表面”には心地良いかもしれないが、“内面”にまではズッシリと入ってこないものが多い。
そりゃぁ、ゲイリー・バートンの紹介で、18歳という若さでバークリー音楽院の講師になったという凄い前歴もあるぐらいだから、彼のギターの腕前は相当なものなのだろう。
しかし、それ以前に、あの音色。
要するに音色一発で、人はミュージシャンを好きになったり嫌いになったりもすることもあるわけで。
腕前とか凄さ以前の問題として。
どうも、テクニックゆえの流麗さか、あの音色で弾かれるメセニーの音色には体の芯奥を揺さぶるものが無い。
メセニーのファンは言う。
いや、そんなことはない。甘いだけなら単なるイージーリスニングだ。メセニーの音楽には、毒のようなスパイスが必ず入っている。そこを聴き取れないヤツの耳がタコなのだ。と。
うん、私、タコです(笑)。
でも、私、そこを聴きとるほど真面目に聞いたことないしなー。
ジャコとやっているアルバムはジャコのベースばっかり聴いているし。
しかし、メセニーが4ビートやっている『クエスチョン・アンド・アンサー』はなかなか素晴らしいアルバムだし、ジョニ・ミッチェルのサポートをしているときのメセニーのプレイにも光るものがあるので、一概にメセニーが嫌いとは言い切れないものもある。
要するに、好きだったり、嫌いだったりするミュージシャンなのだ。
ところが、そんなメセニーに対して複雑な思いを抱いている私でも『シークレット・ストーリー』は大好き。
もう、これは何も言わずにただ絶賛するしかない。
滅茶苦茶素晴らしい感動の大作。
手放しにメセニーが好きとは言えない私でも、これは揺るぎもない大傑作だと思っている。
これはもうメセニーの音色云々、ギターのプレイが云々といった“楽器単体”の好みを超えた、一つの“ミュージック”として、壮大な完成度とドラマを有している音世界なのだ。
楽器奏者以上に、彼は作編曲家としての才能があるのではないかと思うぐらいだ。
この作品に全精力を注ぎ込むために、6ヶ月間仕事をキャンセルして、スタジオにこもって練り上げたとのだという。
10曲作ったら、9曲は捨てたというほどの力の入れよう。
この雄大なスケールは、映像の無い映画を観ているような錯覚にも陥る。
冒頭のカンボジアの子供たちのコーラスから、一気に“世界”に引き込まれてしまう(ちなみに、このコーラスはサンプリングしたものを繋ぎ合わせて編集したもの)。
このコーラスの後に絶妙なタイミングで登場するメセニーのギターも素晴らしい。
《ファインディング・アンド・ビリーヴィング》の変拍子(7/8拍子)に乗ったインディアン・チャントも素晴らしく、この二曲だけでも民俗音楽好きな人は、「おっ!」と身を乗り出すのではないだろうか?
これらエスニックな要素が、メセニーの個性と何の違和感も無く見事に溶け合っているのだ。
ちなみに、この曲は最初のパートは7/8拍子だが、オーケストラが入る箇所は6/8拍子になる。
複雑なリズムとリズムチェンジも、まったく違和感なく聴かせてしまう曲作りのセンスが凄い。
個性的なミュージシャンに、オーケストラ、民俗音楽のコーラスなどなど、様々な要素を混沌と詰め込んだごった煮の世界なのに、この作品は、なんとピュアで澄んだサウンドなのだろう。
そして透き通ったサウンド全体から漂うメランコリックさ。
涙が出るぐらいだ。
実は、私がこのアルバムを好きになったのは、今は無き、渋谷にあったジャズ喫茶「スイング」のお陰だといえる。
音を聴かせるだけのジャズ喫茶と違って、この店はジャズの映像を上映していたのだ。
ここのマスター・宮沢さんが『シークレット・ストーリー』のライブのLDが大好きで、客からリクエストの無いときは必ずといっていいほど、この映像ソフトを流していた。
今から10年近く前の話だ。
私は週に数回の頻度で、平日の昼間の1時間か2時間を「スイング」で過ごすことが習慣となっていた。
マスターが店にやってくる時間はマチマチで、早いときは、正午。遅いときは1時過ぎに店にやってきた。
私は昼食後のだいたい12時半頃に「スイング」に向かうことが多かったが、店がまだ閉まっている時は、店の前の階段でマスターの来訪を待っていることも多かった。
軽やかな口調で、「よぉ、今(店を)開けるからな。ちょっと待っててな。」
と、真っ暗な店内に明りを点し、まずは私が見たい映像を見せてくれる。
この時間帯に店に来る客はほとんどいないので、開店直後の「スイング」は私の独占状態。他の客の目を意識することなく、気軽に観たい映像をリクエストできたため、随分とここでジャズを楽しませてもらったし、勉強もさせてもらった。
だいたい、30分から1時間の間は、私がリクエストした映像が流れ、それが終わって店内に客がいない場合は、マスターは決まってメセニーの『シークレット・ストーリー』のライブの映像を流していた。
昼のちょうど良い時間帯なだけあって、私は『シークレット・ストーリー』のサウンドのシャワーを浴びながらコックリと昼寝をするのが常だった。
睡眠学習というわけでもないだろうが、いつもいつもまどろんでいる間に流れるサウンドが『シークレット・ストーリー』だったので、時々、無性に『シークレット・ストーリー』のサウンドに対しての飢餓状態に陥ることがあった。
だから、結局、いつでも飢餓状態に陥ったときに鑑賞できるために、LDとCDの両方を揃えるはめになってしまった。
時おり思い出したように聴くと、やはり良いんだなぁ。
聴くたびに発見があるし、興味を抱く曲も違う。
実はこの原稿を書く際、パーソネルが多いため、一度に書き写すのが面倒だったので、数日かけてキーボードを打っていたのだが、その間はずっと『シークレット・ストーリー』をかけっぱなしにしていた。
おかげで、3歳になる息子がすっかりジャケットと音楽を覚えてしまって、すでにこのアルバムは「わんわんとタマゴのCD」と呼ばれている。
“わんわん”とは言うまでもなくジャケットの真ん中の犬。そして、“タマゴ”とは、犬の写真の左端にある目玉焼きの切り抜き写真だ。
一日に数回リピートして聴いても全然飽きないし、耳に本当に心地よい。
爽やかだけれども、深い感動が湧き上がってくるのだ。
メセニーはエレクトリック・ギターのほかにも、シンセ・ギターやナイロン・ストリングス・ギターなどの様々なタイプのギターを曲によって使い分けているが、その使い分け方が絶妙。
どのギターも心地よいサウンドの一部として溶け込んでいる。埋没しているという意味じゃないよ。ちゃんと主張もしているが、サウンドの一部にもなっている。
この按配の絶妙さも聞いていて飽きない理由の一つかもしれない。
10曲目の《アズ・ア・フラワー・ブロッサムズ》には矢野顕子も参加している。
曲の後半に、うっすらと歌声が聴こえるが、これがアッコちゃん(矢野顕子)の歌。
よく聴くと日本語で歌っている(♪花のように咲いてあなたの元へかけてゆく)。
作詞ももちろんアッコちゃん。ただしピアノは彼女ではなく、メセニーが弾いている。
矢野顕子といえば、本当は彼女は冒頭のカンボジア・コーラスのパートに参加する予定だったらしい。
メセニーから、ちゃんと練習するよう頼まれたれたので、猛練習の末、きちんと歌えるようになった途端、予定が変更。
「あんなに一生懸命練習したのに、ひどいじゃないの」と彼女はメセニーに抗議したというエピソードもあるらしい。
それにしても、矢野顕子もメセニーも、ほんわかとスケールの大きなミュージシャンですね。
後半の《アントニア》も絶品だし、《ザ・トゥルース・ウィル・オールウェイズ・ビー》も感動的。
どうも、最初の頃は前半の曲のほうに魅せられていた私だが、最近は後半の曲群のほうに感動している。
全編75分の壮大な作品だ。
1曲1曲がそれぞれ独立した素晴らしい曲だが、これらの曲が集まると、あたかも支流が寄せ集まって大河を形成するかのごとく、小さなストーリーが大きな物語へと収斂してゆく内容でもある。
もう、ほんと、とんでもない作品なのだ。
だからといって、意気込んで、隅から隅までくまなく聴く必要は無いと思う。
気が向いたときに、気が向いた曲の番号を入力する“部分聴き”をしても充分な感動を味わえる。
一生かかって付き合える素晴らしい作品なんだもの。“部分聴き”で小さな幸せを日常的に味わい、ときに“全部聴き”で大きな感動に包まれてみるといった上手な付き合い方をしてゆきたい。
『シークレット・ストーリー』は、とにかく素晴らしい“サウンド”がギッシリと詰まっている、“音の缶詰め”だ。
いや、“魔法の缶詰め”と言うべきか。