SO NICE (Somethin' Else) |
| - 小林 桂 |
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小林桂 (vo) 松島啓之 (tp) #2,6,9,11 宮野裕司 (as) #1,4,8 石井彰 (p,syn,arr) 安ヵ川大樹 (b) #1-11 小島勉 (ds) #1-11 続木力 (har) #12 1999/12/22 & 23 |
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テレビをつければJ-POP、アニソン、短時間で聴き手を印象づける掴みのよいタイアップ曲やCM曲が流れてくる、ニッポンの家庭環境。 音楽の授業ではベートーベン、給食の時間はモーツァルト、下校時間はドヴォルザークが流される、ニッポンの義務教育環境。 紅白歌合戦をつけると、演歌の旋律が自然と耳の中にするする入ってくる、ニッポンの大晦日。 このように、“フツーのニッポン”の“フツーな庶民”な生活の中で、ブルース・フィーリングや、ジャジーなフィーリングを身につけることは難しい。 以前通っていたヨガ教室の先生曰く、 「人間は電車に乗ったときに右に曲がるクセがあるだけで、その人の骨格は右に歪んでゆきます」。 つまり、ちょっとしたクセも自然に堆積されてその人自身を形成してしまうということ。 音楽も同様で、無意識に耳からはいってくるものが堆積されゆき、その人自身の感覚を形成することは言うまでもない。 マサイ族だって大阪で生まれれば「ワシ、生まれは大阪生やねん」になる。 「俺らのようなノリを身につけたければ、とにもかくにもジャマイカに来て、俺たちと同じものを喰って、同じ生活をすればいいよ」と言ったレゲエミュージシャンがいたが、日本人がジャマイカで生活すれば、いつしかバネの効いたリズム感覚が身体の中に堆積されてゆくだろう。 よって、基本的には“演歌やポップスなニッポン”の生活に浸かって生活している限り、ジャズのフィーリングを身につけることは難しい。 身につけようと思ったら、それは努力で獲得してゆくしかない。 その感覚を獲得する努力とは、肉体的なトレーニング以上に、ホンマモンの音源を聴きまくり、フィーリングを堆積させ血肉化させるしかない。 音の佇まい、ニュアンスを身体の中に堆積させてゆく努力。 このような日常生活の“圏外”にある音のフィーリングは、こちらから向かっていって獲得する必要があるわけで、多くのクラシック出身の器楽奏者がジャズに転向した瞬間に躓く箇所が、このノリやフィーリングの箇所なことは当然といえば当然のことなのだ。 ジャズ畑の人だって、いくら楽器操作が巧みだからといって、即、演歌歌手の伴奏が出来るわけではない。 やはり演歌という文脈の中には独自の感動のコードが埋め込まれているわけで、ジャズ的なアドリブはとれなくとも、その道何年の演歌専門サックス奏者がいるのと同じだ。 多くのジャズ演奏を志望する器楽奏者は、ジャズ的フィーリングを主体的に獲得すべく、バークリーに通うなり、ショップの店員さんに「ピアノトリオやるにはハービー・ハンコックのトリオを聴けと先輩に言われたんですけど」と尋ねたり(目撃者からのお話)するわけだ。 自分から情報を取りに出かけて、学習&獲得してゆく。 つまりは努力しないと身につかない世界。 努力の末になにごとかを身につけ、なにごとかを獲得した人を「努力の人」と呼ぶのであれば、その反対に位置する人のことを「天才」と呼んでいいものかどうかわからないが、「天才は環境が作る」という言葉もある。 つまり、生まれ育った環境が努力を必要とせぬ、最初から整った環境で育ち、幼少時に無意識かつ無自覚にインストールされる環境に恵まれ、かつ無意識にそれを表現できる人は、やはり天才と呼んでも差し支えないのかもしれない。 ヴォーカリスト、小林桂がまさにそれに当てはまる。 はじめて彼のヴォーカルを、しかもほんの数秒聴いただけで、「ああ、天才だ。この人努力してないな」と感じた。 「努力してないな」と書いてしまうと、誤解が生まれそうなので補足をしておくと、彼とてヴォイストレーニングやジャズの理論の学習など、ジャズ表現に必要な相応の努力はしてはいるだろうが、“フィーリング”という、もっとも曖昧で、指標と数値が見えにくい「努力」に関しては無縁の人だな、ということ。 つまり、最初から彼の歌が発する雰囲気、声のたたずまいがどこを切り取ってもジャズで、このジャズなフィーリングからは「ジャズっぽいボーカルを歌うぞ」という気負いはまったく感じられない。 つまり、普通になにを歌っても全部をジャズにしてしまう雰囲気を持った人なのだ。 多くの日本人のヴォーカルは「ジャズっぽいボーカルを歌うぞ」と、歌唱モードにスイッチがはいった状態でジャズヴォーカルを歌っているように感じる。 阿川泰子にしろ、綾戸智絵にしろ、なんだか頑張っちゃっている感じが先に放出されてきてしまって、こちらも、「ああ、今歌われているのは日本人が歌うジャズだから、こちらもジャズを聴く気持ちになろう」とばかりに、気分にチューニングをかける必要がある。 しかし小林桂の場合は違う。 おそらくは、彼にとっての普通の歌が、いや鼻歌でさえも、自然とジャズの磁力を帯びてしまう。 それはやっぱり環境にあり、なんだよね。 父親がジャズピアニスト兼アレンジャー(小林洋)、母はジャズ・ボーカリス(村上京子)、祖父が村上一徳(ジャズ・スティールギター奏者)いう家庭生まれ、 育った。 当然、幼少期よりジャズそのものが、環境そのものだった。 そういう育ちの人に、演歌を歌えと演歌を歌わせることは難しい。 空気のようにジャズが漂う環境で育てば、血も細胞組織もジャズモードに形成されることは当然で、したがって、20歳のときに吹き込まれたこのアルバムでの歌唱はどこをどう切り取ってもジャズ以外ではありえず、そういう天才の前には「20歳にしては〜」という枕詞は不要なのだ。 と同時に、人の感情に直接切り込んでゆく「表現」という世界においては「年季のはいった」とか、「何十年も続けていればそのうち……」というような言葉が色褪せ、と同時にウソ臭く響き、才能のない人に向けられた慰めの言葉だとしか思えなくなる。 小林桂が平常心でフワリと歌い、彼のフワリとしたヴォーカルから漂うフワリとしたジャジーなフィーリングには、凡人の頑張りや努力とかといった世界とはまったく無縁の「最初から持っていた人」の感覚がイヤミなくにじみ出ている。 とにかくどこを切ってもジャズ。 メル・トーメ的なフィーリングをたたえ、チェット・ベイカーのヴォーカルを聴く感覚でサラリと聴ける小林桂。 多くの日本人ジャズヴォーカリストが、無意識に漂わせてしまう「頑張ってます!」な気合いとは無縁の、「頑張っていないヴォーカル」ゆえ、肩肘張らずに気軽に聴けるが、けっこう深いところまではいってくる小林桂20歳のときのデビューアルバム『ソー・ナイス』は、残酷なほどに凡人と天才の差を見せつけてくれる。 |
| (2010/01/16) |
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