RETURN OF GRIFFIN (Galaxy)
- Johnny Griffin

  1. Autumn Leaves
  2. When We Were One
  3. A Monk's Dream
  4. The Way It Is
  5. Fifty-Six
  6. I Should Care

Johnny Griffin (ts)
Ronnie Mathews (p)
Ray Drummond (b)
Keith Copeland (ds)

1978/10/17

我らがヒーロー、ジョニー・グリフィンの“スーパー・アルバム”!!

なんていうと、子供向けのアニメやヒーロー向けの煽りみたいだが、臆面もなく、ベタな煽りが使えるほど、過剰ともいえるほどのエキサイティングさと、ロマンティックさがこれでもかと封じ込まれているアルバムだ。

アップテンポでは思いっきりエキサイティングに。
スローテンポでは、思いっきり情感を込めて。

一歩間違えると、“ベタ”なぐらいストレートで“分かりやすい”な表現だが、「おおっ!そうなんだよ、分かるぜグリフィン!」と身を乗り出している自分がいる。

彼のテナーのサウンドの、太いこと太いこと。
彼のフレーシングの逞しいこと逞しいこと。

パワフルで豪快。
無敵のテナー奏者、ジョニー・グリフィン。
一曲目のアグレッシヴに吹きまくる<枯葉>を聴けば、このパワフルさは、ご納得いただけよう。
この《枯葉》が、『リターン・オブ・グリフィン』の目玉曲なことは確かだが、個人的には、3曲目の<ア・モンクス・ドリーム>が気に入っている。
さすが、モンクとの共演歴のあるグリフィンのこと、モンクのムードを壊すことなく、素晴らしい演奏に仕上げている。
これを聴いて、ファイブ・スポットでの熱いモンクとのセッションを思い出すのは私だけではないだろう。

パリに10年、その後オランダに移り、家族と共に暮らしたグリフィン。
そんな彼が、彼がおよそ15年ぶりにアメリカにツアーで帰米した際に吹き込まれたのがこのアルバムだ。

逞しいブロウ。
一言、かっこいいです。
(2003/08/06) 

先日、ジャズギターを弾くマスターの店に行った。

店そのものはジャズの店ではない、普通の飲み屋だが、マスターはその昔、ジャズではないが、プロとしての活動歴もあり、短い期間ではあるが、高柳昌行のギター教室にも通っていたこともあるそうで、音楽へのこだわりは並大抵ではない。

このマスターとジャズの話がはじまると、気がつくと必らず終電がなくなり、一緒にタクシーで帰ることになる(家は近所なのです)。

たまたま話題が《枯葉》になり、さらに、私が持っていたiPodの中にジョニー・グリフィンの《枯葉》がはいっていたので、誰もいなくなった店内で、大音量でかけさせてもらった。

きっと《枯葉》好きのマスターは、喜ぶだろうな。そうしたら、意外なことに、そのマスター曰く、
「たしかに、テクニックは凄いし、自分もグリフィンのようなギターを弾ければどんなにいいかと思うよ。でもねぇ、ただそれだけって感じ。それがどうしたの? なんだよねぇ。《枯葉》が単なるテクニックを見せつけるための道具になっちゃってるよ」
なのだそうだ。

アップテンポの《枯葉》を、もりもりとタフに吹きまくるグリフィンの演奏、私は、「かっちょえぇ!」としか感じていなかったのだが、なるほどギターと一体化してフレーズを「歌わせる」ことを常に考えているマスターからしてみれば、言い方悪いが「楽器オナニー」のように感じたらしい。

ま、そう言われてしまったら身も蓋も無いんだけどね。

この《枯葉》の聴きどころは1にも2にも「テクニックの凄さ、アドリブの斬れ味」なのだから。

しかし、私の考えを言ってしまえば、グリフィンは、テクニックだけが凄いわけではないと思う。

次から次へと生み出されてゆくアドリブの旋律、音を繰り出す勢いは圧倒的だ。しかし、圧倒的なだけではなく、きちんとグリフィンが「出したい音」と「出てくる音」が一体化しているからこそ、私は気持ちよく聴ける。

「出したい音」と「出てくる音」の一致。
これすなわち「楽器で歌っている」ことに他ならない。たしかに、アップテンポゆえ、音数も凄いが、ただ単に吹き散らかしているだけではない音の説得力も私は感じる。

あたりまえだが、たしかに、この《枯葉》は、しみじみとはしていない。

シャンソンの《枯葉》の原曲を絶対視するとすれば、この演奏は原典をことごとくブッちぎった内容ではある。しかし、それこそがジャズの面白さの一つではないか?

そのうえ、しみじみとしていることがイコール「歌心」に繋がるとは限らないように、アップテンポの演奏が、即、「歌心無し」につながるわけでもないと私は思うのだが……。

そして、もう一つ。恐らくマスターの「歌ってない」は、フレーズの問題もあるのかもしれない。
マスターは、ギターで自分独自のフレーズを紡ぎ出すことに非常なるコダワリを持っている。しかも、そのフレーズの中身は、決してコード分解だけによるものではなく、必ず原曲の意図を汲み取ったものでなければならない、という考えの持ち主。

アドリブに対してのアプローチや考え方は、ミュージシャンによっても様々なので、マスターの“テーマティカル・インプロビゼーション”的な考えは、有名なところではソニー・ロリンズがまさにそのスタイルなので、取り立てて珍しいというわけではなく、しごく真っ当な考えだと思う。

たしかに、曲の意図を汲み取った上でのアドリブを至上とするならば、グリフィンのアプローチはマスターの考えとは異なる。なにせ、典型的なツーファイブ進行のもっともオーソドックスな曲の代表である《枯葉》を、これまたグリフィンは、ツーファイブ進行のお手本となるような、いくつもの秀逸なフレーズを目も覚めるような勢いで吹いているのだから。

つまり、楽器のフレーズにこだわるマスターにとっては、グリフィンのアドリブの内容は、ツーファイブ分解による魅力的なフレーズの宝庫だということは重々認めつつも、そこにあるのは、恐らくは与えられた命題に対しての優秀かつオリジナリティのある模範解答ではあるが、そこに原曲《枯葉》の心は感じられない、おそらくそういうことなのだろうと思う。

これはこれで、一つの見解。

グリフィンの《枯葉》の感想は、マスターの楽器弾きとしてのポリシーを垣間見た瞬間でもあり、また、私の考える歌心(=出したい音と出てくる音の一致)と、マスターの考える歌心(=原曲理解と尊重を大前提とした上で、自分独自のフレーズを弾くこと)の解釈の違いも浮き彫りになり、実りのある会話にはなったと思う。

しかし、『リターン・オブ・グリフィン』は、もちろん《枯葉》だけが目玉ではない。
2曲目の《ホェン・ウィ・ワー・ワン》もいい。まさに、男の哀愁、ハードボイルド。

《枯葉》とは違うカッコ良さで魅せてくれるグリフィンだが、残念ながらこの演奏はマスターには聴かせていない。まさか、この演奏までもが「歌心無し」とは言わないだろう。言ったりして(笑)。
(2008/01/01) 


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