LAST DATE (Fontana) |
| - Eric Dolphy |
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Eric Dolphy(as,bcl,fl) Misja Mengelberg (p) Jacques Schols (b) Han Bennink (ds) 1964/06/02 |
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エリック・ドルフィーがベルリンで客死する27日前に録音されたアルバムだ。 アルバムラストに収録された彼の肉声によるメッセージ、「音楽は演奏とともに中空に消え去ってしまい、二度とそれを取り戻すことは出来ない…」が有名だ。 録音場所は、オランダのヒルベルサム。 地元のラジオ局が放送しているジャズ番組用におこなわれたレコーディングが本作だ。 曲間に聴こえるまばらな拍手から察するに、スタジオ・ライブ仕立てにしたのだろう。 ファイブ・スポットに出演した、ブッカー・リトルらとのグループを除けば、生涯レギュラー・バンドを持つことのなかったドルフィー。 だから、ヨーロッパでのライブの共演相手は、現地のミュージシャンとなるわけだが(ミンガスやコルトレーンのレギュラー・バンド在籍時は別)、記録されているドルフィーがリーダーのライブ音源に耳を通すと、ほとんどの現地リズム・セクションは、伴奏者の域を出ていないレベルのものが多い。 堅実だが、ドルフィーのイマジネーションを刺激するまでの伴奏にはいたっていない。 しかし、本作のリズム・セクションは別だ。 特に、ピアノのミシャ・メンゲルベルクと、ドラムのハン・ベニンク。 今では、ヨーロッパのフリージャズ方面の大御所的存在だが、すでにこの時から独特な光を放っていたのではないかと思う。 この「独特な光」とは、黒人の演奏には絶対に求め得ないノリだ。 誤解を恐れずに言えば、まったりとした鈍い感じ、そして、独特の歯切れの悪さだ。 「歯切れの悪さ」なんて書くと、なんだか悪いニュアンスに受け取られてしまうが、もちろん褒め言葉のつもりだ。 じめっとした、じとっとしたなんとも言えないまったりとした感じが、黒人ジャズの重さとはまた違ったニュアンスの重さと湿度を感じさせ、それが驚くほどにドルフィーのサウンドに合うのだ。 バス・クラリネットで演奏される、セロニアス・モンク作曲の《エピストロフィー》が良い。 出だしの咆哮一発の驚きと、グロテスクで美しい、まるで異星人の鳴き声のようなアドリブ。 不気味な軟体生物が生命活動を開始したような、そんな不思議なニュアンスを漂わせるドルフィーのバスクラサウンドを、さらに効果的に引き立てているのは、メンゲルベルク以下のリズム・セクションにほかならない。 特にミシャ・メンゲルベルグのピアノのバッキングに注意してみて欲しい。 まったりと、どんよりと、時折、効果的なリフを繰り返すバッキングと、フリー・ジャズや現代音楽特有の調整感の希薄な和声。セロニアス・モンクを彷彿とさせる不協和音的なクラスター。 黒人の弾くピアノの「粘っこい重さ」とはまた違う、メンゲルベルクの「どんよりした重さ」が、ドルフィーのバスクラをさらに効果的に彩っている。 鈍重だけれども、どこかエッジも感じられる不思議なピアノ。 『ラスト・デイト』を名盤たらしめているのは、《ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラブ・イズ》におけるドルフィーのフルートだけではない。 ミシャ・メンゲルベルクこそが、このアルバムの影の功労者なのだと思う。 彼のピアノなくしては、他に何枚も出ている“ヨーロッパで客演したドルフィーの演奏の記録アルバム”の1枚で埋もれていたに違いない。 |
| (2002/04/27) (加筆修正 2004/06/13) |
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ウラジミール・シモスコの著書『エリック・ドルフィー』によると、ドルフィーは生前にモンクとの共演を強く望んでいたようだ。「モンクほどのミュージシャンと共演するにはもっと練習しなくちゃ」といったようなことを語っていた旨が本書には記されている。 ドルフィーのベルリンでの客死により、結局二人の共演は果たされなかったが、もし二人が共演していたらどんな音楽が生まれていたのか? これはとても興味深いことだ。 ファイブ・スポットでモンクと共演したグリフィンやコルトレーン以上にエモーショナルなサウンド? 『アウト・トゥ・ランチ』以上に不思議で多角形な奥行きの広がるサウンド? 『ミンガス・プレゼンツ・ミンガス』のように意味深な会話が交わされる? いろいろ想像を巡らせど、結局は想像の中での憶測でしかありえないのだが、一つ手掛かりがある。 『ラスト・デイト』に収録されている「エピストロフィ」。モンクの曲だ。 ドルフィーが他に演奏しているモンクの曲といえば、すぐに思い浮かぶのがジョージ・ラッセルの『エズセティックス』収録の《ラウンド・ミッドナイト》だが、これはこれで背筋が凍るほどの肉感的な素晴らしいアルトだ。 しかしモンクのピアノとは明らかに趣きの異なるリディアンクロマチックコンセプトの提唱者、ジョージ・ラッセルの明晰なピアノがバックの演奏よりも、ひょっとしたら“モンクよりもモンク的”なピアニスト、ミシャ・メンゲルベルグのピアノを従えた演奏がよりドルフィー・ミーツ・モンクの見果てぬ演奏への思いを巡らすことが可能かもしれない。 そう思い、久々に『ラスト・デイト』をかけてみた。 すると、どうだろう。「モンク的なピアニスト」だと勝手に思い込んでいたメンゲルベルグのピアノだが、意外なほど輪郭がハッキリしていないことに気がついた。 逆にいえばモンクのピアノは、こちらの想像以上にリズムの歯切れと音の輪郭がハッキリしているのだなということだ。 たしかに突拍子もないタイミングで、突拍子もない音を鳴らす「モンクっぽさ」をメンゲルベルグは身につけている。 しかしメンゲルベルグのピアノのリズム感やノリは、モンクのピアノほどハッキリしていないし、むしろ湿気を多分に含んでいるが(そこが彼のピアノの良いところだと私は思っているが)、ドルフィーの咆哮するバスクラのバックでモンク的な不協和音に近いボイシングの和音を「まったり」と奏でるメンゲルベルグのピアノはそれはそれで悪くない。 ドルフィーのこの《エピストロフィ》は私の大好きな演奏で、この演奏がきっかけで、どちらかというと無味乾燥で愛想の無い曲を好きになることが出来た。 ドルフィーの生々しく、そしてウネウネと曲線を描くかのようなバス・クラリネットがこの曲に生命を吹き込んでいるからだ。 とにかくイントロのバスクラの咆哮が素晴しい。 ドルフィーのソロのアプローチについて考えてみよう。 いつものドルフィーの饒舌で圧倒的な音数を吹き散らすソロとは多少趣きを異にして、この《エピストロフィ》では心無しか音のスペースを意識しているかのようなアドリブとなっている。 フレーズからフレーズの間に設けられる「間」の多さ、そしていつものドルフィーのソロよりは明らかにロング・トーンが多い。 あたかも、意図的につくり出したスペースにモンク的な和音のクラスターが入ることを念頭に置いているかのように…。 このようなソロ構成の配慮のもと、モンクのピアノが「コキン」と一音入れば、世界はモンク色に染まるのだろう。 もっともメンゲルベルグのピアノも、多分にモンク的な音使いには違い無いのだが。 ただ一つ違う点があるとすれば、「ノリ」の歯切れ悪さ。 モンクのノリとは明らかに趣きを異にしている。 もっともこのメンゲルベルグの歯切れ悪さが逆にこの演奏に良い意味での不気味さを加味しているので、モンクのオリジナル曲に新しい解釈を加えていることには違いないのだが。 モンクのピアノを多角形的だとすると、ドルフィーのバスクラ、アルト、フルートは明らかに曲線タイプの図形だ。 この異なる二つの図形がブレンドされると、素晴しいサウンドが生まれるだろうことは想像に難くない。 《エピストロフィ》を彼らが共演したとしたら…。 限りなく『ラスト・デイト』中の演奏に近くなるのではないか。 ただし曇り空のようなこの《エピストロフィ》よりもう少し「カラッ」とした演奏になるのだろうけど。 『ラスト・デイト』を聴きながら、そんなことを考えていた。 |
| (2003/01/11) |
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ジャズ喫茶「いーぐる」のマスター、後藤雅洋氏が、エリック・ドルフィーのお勧め音源としてよく紹介されているのが、『アウト・ゼア』だ。 私もこのアルバムのタイトル曲は大好きで、よく聴いている。 テーマもアドリブも、絶妙な均衡がとれており、スピード感のある徹頭徹尾ホリゾンタル(水平)なテーマのメロディやアドリブのメロディラインは、美しい。 それにドルフィーならではの推進力が加わるので、非常に力強いアドリブとなっている。 ロン・カーターがチェロで加わったことにより、妖しく不思議なムードも付加され、このアルバムでしか出しえない、独自のムードに包まれていると思う。 しかし、独自のムードを差し引き、 さらに、ドルフィーならではのスピード感や音の強さを差し引き、 単純に彼が奏でるアドリブ・ラインだけを抽出すれば、これは、明らかにビ・バップ独特の、上下に蛇行をくりかえしながらも、旋律が横軸に進んでゆくアプローチの延長だ。 もちろん、跳躍激しく、音の切れ目が少なくなってはいるが、このアプローチは明らかにパーカーのスタイルを咀嚼吸収した延長線上に成り立つネオ・ビバップ的なアプローチと解釈できる。 したがって、パーカー好きな後藤さんが、パーカー的な《アウト・ゼア》が好きなのは、流れとして、とてもよく分かるし、好みのスジが通っていると感じる。 もっとも、私はこの時期のドルフィーのスタイルは、厳しい見方かもしれないが、十分に独創的でオリジナリティはあるとは思うものの、まだまだパーカーの影響圏を脱しきっていない「習作」と捉えている。 阿部薫にも多大な影響を与えたに違いない、音符の羅列ではなく、一音にインパクトを持たせるアプローチこそが、ドルフィーの真価。 これが目を出すのは、もう少し後年になってからだ。 『アット・ザ・ファイヴ・スポット』でその萌芽が認められ、 『アイアン・マン』で完成の領域に近づき、 『アウト・トゥ・ランチ』で、その表現方法と音楽フォーマットが幸せな融合を果たした、というのが私のドルフィー観。 そして、このスタイルで、ヨーロッパの新進気鋭の先鋭ジャズマンたちと4ビートのフォーマットでのアプローチの試み、これこそが、傑作『ラスト・デイト』なのだ。 ドルフィーの表現的成長と、オリジナルなスタイルの獲得の過程は、まさに水平から垂直への移行と私は捉えている。 そして、音数がいくぶんか少なくなったぶん、アクセント的に時間の楔に打ち込まれる衝撃の1音の音圧と密度! これこそが、ドルフィーの魅力の1つだと私は受け止めている。 もう少し具体的に書くと、たとえば、ファイヴ・スポットにおける《ファイヤー・ワルツ》や、《ザ・プロフィット》を聴くと、アドリブの一部に、旋律というよりは、まるで不可思議な生き物の鳴き声のような、擬音のようなフレーズがアルトサックスによって演奏されている。 また、『アウト・トゥ・ランチ』も同様で、バスクラやアルトサックスで、「ブッ!」とか「ビュッ!」という重たい一音が放たれている箇所がある。 これが、まさにマイルス・デイヴィスいうところの「馬のいななき」なのだろうが、パーカーの影響圏を脱し切れていない時期のプレイスタイルは、あくまで、時間という横軸と並行するかのように、音程の上下の落差はあるものの、横へ横へとアドリブラインが流れていった。 対して、後年の演奏で多く認められる「ビッ!」とか、「ビュッ!」という音圧の高い、あたかも圧倒的な情報量が一点に収斂したかのような重たい「音による一撃」を聴けば、 明らかに、ドルフィーのアドリブに対するアプローチの関心が、時間に対しての横軸から 縦軸に移行していることを意味している。 より抽象度が高くなり、より、バップの重力圏より「彼方へ(out there)」飛んでゆこうという彼なりの意思表示にも聴こえる。 そして、『ラスト・デイト』と、その数日後に録音された『ラスト・レコーディング』を録音し、でこの世を去ってしまったドルフィーだが、 晩年に多くみられる、この時間の横の流れを寸断するかのようなアプローチこそが、その時点でのドルフィーが発揮したオリジナリティの到達点だと判断することができる。 阿部薫のフリー・インプロヴィゼーションのスタイルも、あたかもドルフィーのスタイルの変遷とリンクしていることも興味深い。 もっとも、彼は一番尊敬するドルフィーのことを多分に意識していたことは疑いないが……。 阿部のキャリア初期の、『1970年3月、新宿』や、『アカシアの雨がやむとき』と、 晩年のレコーディング、たとえば、「騒」など晩年で繰り広げた音源とを聴きくれべれば 彼も「間」と「音圧」を重視スタイルに変わっていったのが明らかだ。 ドルフィーも阿部も、「饒舌」から「寡黙」へとスタイルが変遷しているところが興味深い。 もちろん、晩年のドルフィーは、阿部ほど寡黙ではない。 パーカーライクなウネウネ・ホリゾンタルな要素を残しつつ、単音のインパクト表現をアクセント的に付加した内容に移行している。 このバランスの絶妙さを楽しみながら味わえるアルバムこそが、『ラスト・デイト』なのだ。 『アイアン・マン』や『アウト・トゥ・ランチ』の変則ビートとは違った、我々の耳になじみのある4ビートというリズムの枠組みの中で、きわめて良い按配で、リズムセクションとの違和感ないアンサンブルとして溶け込んでいる。 そういった視点で聴けば、多くの方がドルフィー入門の初期の段階で聴いたであろう『ラスト・デイト』も、違う音像として浮かび上がってくるに違いない。 ドルフィー放つ「馬のいななき」の音圧こそ、ある意味、ドルフィーの到達点でもあったのだ。 |
| (2008/05/11) (2009/12/03 加筆修正) |
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