THE TRUMPET PLAYER (Fresh Sound New Talent) |
| - Avishai Cohen |
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Avishai Cohen (tp) Joe Frahm (ts) #4,5,7 John Sullivan (b) Jeff Ballard (ds) 2001/11/25 |
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音楽には重力のようなものがあると思う。 この「重力」というキーワードは、しばしば音楽家が音楽を語るときに登場する言葉の一つ。 きっと、多くの演奏家が感じていることなのだろう。 ただし、語る人によっても、その「重力」に込める意味やニュアンスはかなり異なるようだ。 私が感じる重力のようなものとは、ラングメソッドやリディアン・クロマチック・コンセプトで唱えられている重力でもなく、マイルスがケイ・アカギに話したという「重力を振り切って高い音に登りつめる大変さ」とも、多分違う。 それほど難解なものではなく、また理論に還元できるものでもなく、一言で言えば、演奏中に演奏者の気持ちを引っ張るような要素、いうなればメンタル的な重しのようなものだ。 たとえば、ピアノは重力だ。 その物理的な重さもそうだが、フロントでソロをとる管楽器をサポートする、複数の音の組み合わせから成る和音の響きが、ときとして、ソロ奏者が思い切って自分のソロをあと数メートル先にジャンプしようとしたときに、背中を引っ張る重力になってしまうのではないかと思う。 身軽に、新しい風景、新しい局面へ移動しにくい音楽的空間の支配力は、ピアノという楽器はかなり強い。 (それについては、以前、トニー・マラビーの『パロマ・レイシオ』評にも書いたので、よろしければお読みになってください⇒こちら) もちろん、ピアノが参加しているからといって、必ずしもその存在が即、アドリブ奏者の呪縛につながるというわけではない。 たとえばトミー・フラナガンやハンク・ジョーンズのような名手がバックについた場合は、むしろソロ奏者のイマジネーションを喚起させ、飛躍の手助けをすることのほうが多いのだろうし、バッキングの名手、ウイントン・ケリーやソニー・クラークがバックに回った場合は、リズミックに管楽器奏者を「飛んでけ、飛んでけ」と煽る可能性だってあるので、いちがいにピアノという存在がバンドの中での“重し”になるとは限らない。 しかし、多くの管楽器奏者は、無意識にベースラインや、ピアノの響きから、「現在地点」を照合しながら、アドリブを繰り広げているだろうし、わずかほんのコンマ数秒の“照合作業”が、アドリブの飛躍の妨げになる可能性もないわけではないと思う。 飛ぶ前に、足元を確認してしまうというわけだ。 だからこそ、私は、ピアノという楽器が編成に組み込まれていないピアノレストリオというフォーマットが好きだ。 足元確認をせずに、自由に音楽を発展させられる可能性は、ピアノ入りとピアノなしではずいぶんと違うし、イマジネーションの飛躍が、具体的な音と直結しやすいフォーマットと感じているからだ。 多くのジャズ本を紐解くと、ピアノレストリオの解説には「ピアノのコードの呪縛から開放されてのびやかにアドリブが取れる」という解説がされている。 半分は間違いではないと思う。 しかし、半分は間違いだと思う。 ピアノが抜けても、コードの呪縛から完全に逃れられるわけではないからだ。 ベースという存在を忘れていませんか? ベースはリズムを刻むと同時に、コードトーンも提示する役割を担っているのだ。 むしろピアノが抜けたら、そのぶん「現在地を明示」する必要性が増すため、むしろ、ベースラインの中にコードの成分を明示するトーンを多めに選択することが多い。 なぜかというと演奏の現在地点をナビゲートする楽器はベースだけになってしまうから。 それは、ピアノレスのフォーマットでの演奏が多いチャーリー・ヘイデンのベースラインを聴けば明らかだ。 つまり、ピアノがいようがいまいが、ベースが音を出しているかぎり(フリーでなければ)、コードという呪縛からは逃れることができない。 その一方で、ピアノがいたって、コードからの呪縛は逃れられることは可能だ。 マイケル・ブレッカーやジョン・スコフィールドが得意とする(とした)「アウト」という手法がまさにそうで、これは、コードの呪縛を逆利用したクールなアプローチのひとつだ。 ピアノがコードで呪縛してくれればくれるほど、かえって、対比効果が働き、アドリブ奏者の存在を鮮やかに際立たせる効果があるのだ。 だから、「ピアノというコード楽器の呪縛からの脱出云々」と解説されたジャズ本があったら、まずはその書き手が楽器を嗜む人なのかどうか、プロフィールを探ってみるとよいと思う。 べつに、楽器ができなければジャズ評を書くべきではないといっているわけではない。 しかし、包丁や鍋を触ったこともない料理評論家の料理評は、あまり説得力がないのではないだろうか? それと同じで、楽器演奏の経験のない批評家が理論のことを解説しているときは、注意が必要ですよ、ということ。 もしかしたら、受け売りか、分かったつもりで書いている危険性もある。 それはともかく、私が感じる「ピアノの呪縛」というのは、ピアノのコードの響きが管楽器を呪縛するのではなく、ピアノという存在そのものが、演奏者にイマジネーションの広がりにストップをかけてしまうのではないかと思うのだ。 よくも悪くも、それだけピアノとう楽器が持つ場の支配力は強いのだ。 なにごともそうなのかもしれないが、ジャズの演奏においても、安定を得るかわりに冒険やリスクをおかす気持ちが萎え、逆に、ピアノという西洋平均率を構造的に具現化した装置=安定感を供給する装置がないことが、逆に演奏者を果敢に飛躍させる起爆剤になる可能性もあるのではないかと思うのだ。 トランペッター、アヴィシャイ・コーエンの初リーダー作、その名も『トランペット・プレイヤー』は、まさにピアノレスのフォーマットが生み出しやすい、演奏のスリル、切迫感がこれでもかとばかりに封じ込められた良作だ。 ピアノの不在が生み出す事件性、スリル性に満ち満ちていることはもちろんのこと、余計な音がないぶん、よりいっそうアヴィシャイのトランペットに耳を集中させられることも鑑賞の醍醐味。 ユニークなフレージングはもちろんのことだが、ここではアヴィシャイのトランペットの音色にも注目してみてほしい。 じつに様々な色彩の音を搾り出している。 朱色の哀愁、藍色の喚起、橙色の怒りなどなど、あるときは突き抜けんばかりのハイトーンを、あるときは、著しく語尾を捻くり、金色の色彩に鉛色のニュアンスを込める。 ピアノがいないぶん、余計にアヴィシャイのトランペットの音色に耳を集中しやすい。 そして、アヴィシャイは、フレージングとともに、音色の変化も伴って音的ストーリーを語らっているところが、よく伝わってくるのではないかと思う。 アルバム全体のトーンは、ピアノレスならではのスリルが味わえるとともに、かなり戦闘的。 スロー、ミディアムとテンポを問わず、等しく臨戦態勢の構えを解くことのない演奏の佇まいは、ピアノレストリオならではの特性が最大限に活かされた空気感だ。 ファースト・アルバムから勢いとともに懐の深い実力を見せつけてくれたアヴィシャイ・コーエン。 是非、この路線をさらに深化させて欲しいと願うのは、きっと私一人だけではないだろう。 |
| (2010/02/17) |
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