ETERNAL RHYTHM (MPS) |
| - Don Cherry |
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Don Cherry (cor,fl,gamelan,per) Albert Mangelsdorhh (tb) Eje Thelin (tb) Bernt Rosengren (ts,oboe,cl,fl) Sonny Sharrock (g) Karl Berger (vib,p,per) Joachim Kuhn (p) Arild Andrsen (b) Jacques Thollod (ds,gamelan,per) Berlin 1968/11/11&12 |
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ドン・チェリーは、軽やかさと同時に、常に微妙な緩さの伴ったトランペッターだった。 これは、音そのものにも言えるし、様々なサウンドフォーマットを渡り歩いた彼の音楽的スタンスにもいえる。 音でいえば、この緩さゆえに、どんなサウンドフォーマットにも違和感なく溶け込んでしまうという強みがある。 そして、それがそのまま彼の音楽的スタンスにもつながってくることも興味深い。 オーネット・コールマンと、(当時は)先鋭的な4ビートを演った際は、絶妙にオーネットを引き立てつつも、自分自身の存在も力強く、しかも軽やかに主張していた。 娘のネネをフィーチャーしたポップスアルバム『ホーム・ボーイ・シスター・アウト』においても、心地よいレゲエテイストのサウンドにフィットした、味のあるトランペットを吹いていた。 さらに、『即興演奏家のためのシンフォニー』や、表題作『永遠のリズム』のような集団即興演奏を行った場合も、見事にサウンドに溶け込んでしまっているところが面白い。溶け込みつつも、常にチェリーの気配が濃厚に漂うという不思議な存在感。 ここが、彼の面白いところだ。 彼は、一つのスタイルにフォーカスしきらない(しきれない)、寸でのところで自身のスタイルの定型化を慎重に避けるかのような、そんな軽やかな“逃げ”の精神が本質的にはあるのではないか。 それが、良い意味で彼の無国籍性にもつながる。 彼が吹くポケットトランペットは、抽象的で捉えどころのない軽やかさと浮遊感をともなっていることも大きい。 もちろん、クセのあるトランペットには違いないのだが、そのクセが良くも悪くも聴き手の頭の中で類型化しにくいのだ。 だから“パーカーフレーズ”とはよく言われるが、“チェリーフレーズ”って言葉は聞いたことないでしょ? 構築的、かつ技術レベルにおいては伝承可能なロジックを持ったパーカーの明晰なフレーズに比して、チェリーのフレーズは多分に気分的な要素が強い。 だからこそ、オーネットの“メロディ・ジャズ(フリージャズとは呼ばずに、あえて、ここではそう呼んでみる)”を、非常にうまいカタチでサポートできたのだろうし、楽器たちが集団でサウンドを形作る即興演奏においても、うまく溶け込み、かといってサウンドに埋没することもないという、微妙なバランスをとることが出来たのだと思う。 『永遠のリズム』は、そんなチェリーの“緩さ加減”がうまい具合に作用した集団即興演奏だ。 集団即興演奏といえば、コルトレーンの《アセンション》や、セシル・テイラー・ユニット、あるいは彼参加のマイケル・マントラーによる『ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ』などが思い浮かぶ。 では、ドン・チェリーの『永遠のリズム』はどうかというと、文字通り、楽器奏者が集団で即興演奏を行うという方法論に関しては、それほど変わるところはない。 しかし、決定的な違いは、サウンドの拡散度と快楽度だ。 《アセンション》にしろ、テイラーのユニットにしろ、沸点の高い、凄まじい音の集中力と、凝縮力を誇っているが、『永遠のリズム』の即興空間は、それらとは対照的に、音と音の密度が薄い。 だからこそ、逆にすきま風の心地よい広がりが感じられる。 さらに、この広がりは、素朴で土着的な民族楽器の音色を加えたことが、風通しの良いサウンドを形作る上での大きなポイントとなっている。 チェリーは、ガムランのゴングを叩き、4種類の民族楽器の笛(名称不明)を2本ずつ口にくわえ、心地よい音色で音楽を彩っているのだ。 私はあまりワールド・ミュージックには詳しくないので、専門的なツッコミを入れることは出来ないが、しかし、ガムランに限っていえば、楽器の使用法は、かなり怪しい。 少なくとも出てくるサウンド形態は、ガムランとは別種のものだ。 まぁ、複数の奏者の統制のとれたチームワークによって、ようやく生み出される重厚なガムランのスピード感や多層的なニュアンスを、チェリーとパーカッション奏者のたった2人だけで再現すること自体、どだい無理な話なのだが…。 もっとも、チェリー自身、本格的なガムランをここではやろうとは思っていなかっただろうし、ましてやジャズとガムランの融合を図るなどという大それたことを考えていなかったに違いない。 面白くて珍しいサウンドエフェクトの一つとして民族楽器を試みとして用いてみたという、求道的な姿勢とは対極の、動機としては軽いノリだったんじゃないかと思う。 先述したとおり、一つの世界にドップリと漬からずに、寸でのところで、サッと身を引くスタンスが、チェリーの良いところなのだから、本格的にガムランの世界にドップリと漬かる気は最初から無かったに違いない。 ただ、道具としての民俗楽器の使用は、功を奏していると思う。 即興演奏に、新鮮な色彩を付け加えることには成功しているからだ。 もっとも、民族楽器、集団即興といえば、アート・アンサンブル・オブ・シカゴが思い浮かぶが、彼らの統制のとれた推進力のある即興演奏とは、かなり趣きを異にしたサウンドだ。 ある方向に収斂してゆくタイプの即興演奏ではなく、とりとめもない気分の推移をそのまま体現しているような、構成意識は希薄ながらも、ひたすら「いい気分」を持続させるる即興アプローチになっているところは特筆に値する。 このサウンドと方法論を一言で括らざるを得ないのならば、フリージャズという言葉を用いることになんら躊躇はないが、フリージャズと聞いて我々がイメージする堅苦しく、難解で、騒々しいイメージはない。 ま、強いていえば、2曲目のほうは、ピアノの鍵盤がグキャングキャンと連打され、ホーン陣がブォーン、ブキャキャと咆哮する局面もあるが、なんだか、このフリージャズ的な瞬間のほうが、フリージャズ好きのドイツ人聴衆相手へのサービスのような気がしてならない。 チェリーが即興を通して描きたかったのは、緩くて快楽的な、桃源郷的なイメージだったに違いない。 さらに、チェリーにとっての「楽器」は、どこまでも己の身体感覚の延長線上としての「快感増幅共振器」としての役どころが強いので、たまたまポケットトランペットではカバーしきれない領域を笛やガムランのゴングで補ったのだろう。 世間では、「ジャズと民俗音楽の融合を図ったドン・チェリーの意欲作」という「問題作」的な見方をする向きもあるが、以上の理由で私はどうしてもそのような認識にはなれない。 ま、問題作扱いにしたほうが、煽りとしてはキャッチーなんだろうけど。 「気持ちの良いことをやろうとしたら、たまたまこうなっちゃいました」 のほうが、限りなくチェリーの気分に近いのではないだろうか? と、考えた今日この頃。 |
| (2005/02/05) |
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