THE PAUL BLEY QUARTET (ECM) |
| - Paul Bley |
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Paul Bley (p) John Surman (ss,bcl) Bill Frisel (g) Paul Motian (ds) 1987年11月 |
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私は飲んだ後や、仕事が遅くなった帰りにはタクシーを利用することが多い。 タクシーに乗り、自宅の前に到着するまでは、ずっとiPodを取り出し音楽を聴いていることがほとんど。 理由は、タクシーの運転手と話をしたくないから。 もちろん、なかには親切な運転手さんもいるし、話の面白い人もいるから、そういうときは例外的にイヤフォンを耳から外して会話をすることもある。 しかし、運転手さんとの波長や話題が合わないと最悪。 家に到着するまでは拷問の時間に等しい。 とくに、こちらが関心の無い話題を延々と喋りつづける運ちゃんの相手はとても疲れる。そういう運ちゃんに限って野球やサッカーの話題を延々と“会話”じゃなくて“演説”しつづけるから、相槌を打つのが非常に面倒で疲れる。 野球にもサッカーにも興味の無い私にとっては、ニッポン男児のすべてが、野球やサッカーや相撲に興味を持っていると思うこと自体、大間違いなんだよ、と思う。 したがって、このような興味の無い話題を話されるのはとても辛いし、興味の無さそうな客相手に話をする運ちゃんだって辛いだろう。 だから、タクシー乗って行き先を告げると早々にイヤフォンを耳に突っ込み、音楽の世界に没頭する私。 外の景色とかかる音楽のギャップやマッチングを楽しんでいるというわけだ。 先日、西麻布の交差点で拾ったタクシーに乗り、六本木ヒルズ前を通りかかるあたりで、ライオネル・ハンプトンの《スターダスト》がシャッフルされてかかったのだが、ヒルズふもとのバーに集う外国人ビジネスマンや若い男女の姿を見ていると不思議な郷愁に襲われた。 60年前にアメリカの音楽祭で録音された素敵な演奏が、21世紀の日本、それも巨大マネーの動く象徴のビルの麓でかかっている。終電時間を過ぎてもいっこうに人の減らない六本木通りの人々がスローモーションに映り、ゆったりとした音楽に包まれているように感じた。 また、首都高に乗って、さくさくとカーブの多い道を軽快に走っているときに濱瀬元彦の『テクノドローム』が流れ始めると、気分はタルコフスキーの『惑星ソラリス』。 景色と音のギャップやマッチングが私の脳の中で新たな別世界を構築しはじめるのだ。現実世界との距離感が音楽とともに激しく変わるのが面白い。 景色がSFチックに映ることもあれば、日常世界の延長にしか映らないこともある。 もちろん単なるBGMにしか感じないこともある。 そんな中、いつもタクシーの窓の外の風景がすべて幻かと思える音源がある。 つまり、いま車内でiPodを聴いている酔っ払った自分と、ドア一枚を隔てた外界の世界との距離感が3光年ぐらい離れて感じる音楽。 それは、ポール・ブレイの『カルテット』だ。 不思議な温度と浮遊感に満たされた音世界。 ベースレスという特異な編成、ビル・フリーゼルの地上1.5mの低空を徘徊するギターサウンド。 取りとめも無い一筆書き的なサウンドスケッチとも言える音密度のくせに、半径数メートルの空間をまんべんなく埋め尽くす濃厚な音空気。 不穏な空気をさり気なく散らしながら、空間をたゆたうジョン・サーマンのソプラノサックス、あるいはバスクラリネット。 彼らの浮遊する音に的確な方向性と意味づけを行うリーダーのブレイのピアノは明晰さと同時に、ミステリアスな隠微さも濃厚にただよう。 これら不穏で何かが起こらずにはすまない緊張感ただよう空気に、さらに拍車をかけるのがポール・モチアンのシンバルだ。 この不思議なとりとめもないサウンド空間を聞きながらガラス越しに映る風景は、すべてがフィクション。どこか遠い知らない惑星の営みをボーッとのぞき見ている自分がいるのだ。 それだけに、タクシーを降りる間際に視界に入る牛丼屋やコンビニの看板が現実感を伴わない妙な佇まいをもってこちらに迫ってくる。 このギャップの大きさはかなりのもの。しらけた緊張感のない現実に連れ戻され、つかの間のタクシーの中の無遊トリップは、強制終了へ。 タクシーに揺られて、イヤフォンを耳に突っ込んだ瞬間から、その前の気分とはまったく別の世界へマインドを連れ去る『ポール・ブレイ・カルテット』は、異世界へいとも簡単に誘ってくれるアルバムなのだ。 ジャズとして聴くよりも、センスの良いサウンドによるデザインワークとして聴くと良い。 様々な形で、想像力と想像力を刺激してくれる。 |
| (2007/02/28) |
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