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東宝映画の『世界の中心で愛を叫ぶ』のヒット以来、東映も負けじと『四日間の奇蹟』や『同じ月を見ている』を公開するなど、“泣けるムービー路線”が続いている。
邦画のみならず『私の頭の中の消しゴム』や『マラソン』などの韓国映画も“泣ける”ことが大々的な売り文句となっているので、ここのところ日本で映画をヒットさせるための重要なキーワードが「泣ける」であることは疑いようもない。
世の中に「泣きたい」需要もあるからこそ、「泣ける路線」の映画が作られるんだろうけど、私は、この傾向、なんかイヤだ。
「泣けた」「泣けない」という単純な尺度で映画を評価する連中が増えそうでさー。
「泣ける」「泣けない」。そんな単一な尺度だけで映画の良し悪しは測れないっつーの。
泣けたからイイ、泣けないから悪い。
そんな短絡的な評価をする単細胞が増えなければ良いのだが…。
たとえば、「泣ける・泣けない」が映画を評価するうえでの判断基準の人がいるとする。
じゃあ、その人は、アンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』はどう思うのか? 少なくとも泣ける要素ってないと思うのだけれども、じゃあ泣けないからこの映画はダメなのか?
もちろん多くの人はそんな単純な眼差しで映画を鑑賞しているとは思わないけれども、しかしいるんだよね、ごくたまに。
「あの映画は、泣けなかったからよくない」といったような評価を下す御仁が。
いいじゃん、泣けないなら泣けないでも。
問題は、それ以外のところはどうなの? ってことなんだけれどもね。
それは音楽も同じ。
たまたま「音を楽しむ」と受け取れる漢字の構成だからって、そのことを錦の御旗に掲げ、まるで鬼の首を取ったように
「やっぱ音楽って、音を楽しむものだと思うワケ」
なんてワケ知り顔の短絡思考な持ち主さんが多いのも困った現象。
もちろん、楽しい音楽ってイイものだけれども、音楽って、「楽しい」「楽しくない」だけの単純な尺度で測れないもののほうが多いと思うワケ。
単純な割り切りは気分が良いものなのかもしれないが、注意をしないと二者択一のどちらかに当て嵌めるだけで思考停止に陥るよ。
ま、オレは関係ないから陥っちゃっても構わないけどさ、そういう人間は悪いことは言わない、黙ってなさい。偉そうに音楽を語るんじゃないよ。聞いてるほうが恥かしくなってくるから。
「楽しくなきゃ音楽じゃない」ような人は、それではクセナキスの音楽はどう感じるのだろうか? 少なくとも楽しい音楽とはいえないと思うのだが、それをもって「楽しくないからダメ」と決め付けるわけか?
もちろん、泣ける映画を見るのが趣味な人や、楽しい音楽が好きでたまらない人が、自分の中の尺度として「泣ける・泣けない」、「楽しい・楽しくない」を持つことは構わないと思う。
しっかりとした自分の尺度で、そのような判断基準を持つのであれば、ね。
しかし、多くの人は、自分自身で判断基準を決めてないんじゃないの? マスコミや広告が煽る「泣ける」などの尺度をそのまま無批判に、無自覚に受け入れているだけなんじゃないの?
音楽や映画を鑑賞するには、必ずしも教養や知識は必要ではないと思う。
しかし、脳味噌の働きは必要だと思う。
自分自身で咀嚼消化しようとする意思。自分自身の感性で作品を鑑賞出来る力。自分だけの価値基準に照らし合わせて作品を受け止めようとする心意気。
これがないと、いつまでたっても作品は自分に近づいてこない。
「売り文句」がそのまま自分の価値の判断基準になってしまい、そのことの自覚すら無い人もきっと多いと思う。
それが悪いとは言っていない。誰もが日常の関心ごとの中心が映画や音楽なわけじゃないからね。
ただ、マスコミやPRで刷り込まれた価値観を、自分独自の感性だと勘違いしている人との会話は疲れる。ストレスが溜まるから。
「もっと自分の言葉でモノゴトを話せないのか」という喉まで出かかった言葉を飲み込むのに苦労するから。
だから、少なくとも私個人としては、映画を「泣ける・泣けない」でしか語れない人、音楽は楽しむものだからねと信じて疑わない人との会話は御免こうむりたいと常日頃思っている。
(記:2006/07/31)
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