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ニ ュ ー ヨ ー ク の 秋


一番好きなテナーサックス奏者は?
と尋ねられたら、数秒は迷いそうだ。
でも、答えは半ば決まっていて、最初にデクスター・ゴードンが思い浮かび、でも、もしかしたら、他にももっと好きなテナーがいるかもしれないかな?と思い直し、数人のテナーサックス奏者の顔を思い浮かべ、それでもやっぱりデクスター・ゴードンに戻っていきそうな気がする(ややこしい)。

そう、私はデクスター・ゴードンのテナーが大好きなのだ。
安心してテナーの音だけ聴いていられるような、テナーの音。
ヘンな表現かもしれないが、やっぱり音楽を聴いているときって、他の楽器とのアンサンブルの「絡み」も無意識に聴いてしまうではないですか?
特に、私はベースをやっているので、無意識にベースと他の楽器の「絡み」を追いかけてしまっているのかもしれない。もちろんフロントの楽器を第一に追いかけることは確かだが、それでも、背後のリズムセクションの動きも気になってしまう性分だ。
時代変わればスタイルやバックのリズムが変わるのは当然で、特にコルトレーンやロリンズ、そしてスタン・ゲッツらのようにビッグネームなサックス吹きは、積極的にバックのリズムセクションやサウンドのスタイルを変えていったし、どうしても、バックのサウンドのスタイルによって、そして時代時代によってのプレイスタイルによっても好き嫌いが出てきてしまうことも否めない。
だから、あのレーベルの時代の演奏は好きだけど、何年代になってからはあまり好きじゃない、といったように一言では中々思い切って好きとは言えないような人が多いことも確かなのだ。

ところが、ところが。
デクスター・ゴードンだけは別なんだな。そんなややこしいことや七面倒臭いことを考えずに、デックス(デクスター・ゴードン)のテナーのサウンドに浸れれば、もうどんな曲だろうが、どんな演奏だろうがなーんでもいいや、という能天気な気分になれるのだ。
デックスのテナーに浸れれば、それでいいや、あとは何もいらない、という気分にすらなってしまう。
悠々と太い音で、マイペースに。剛胆でいて、時に繊細な一面も魅せるデックス。
リズムに乗り遅れているようで、実はしたたかにリズムに跨って吹いている。こんな悠然としたデックスのテナーがたまらなく好きだ。
デックスのテナーが響いていれば、すべてがオーライ。そんな気分にさせてしまう魅力がデクスター・ゴードンにはある。

そのデクスター・ゴードンが晩年に、主役を演じた映画がある。
『ラウンド・ミッドナイト』という映画だ。
しかも、映画の中でも、やっぱりテナー・サックス吹きの役。どこまでが地なのか演技なのかよく分からない「ぬーぼー」とした演技には、不思議な味がある。
そして、この映画全体を貫く「ダルいムード」が、たまらなく魅力的だ。
映画中でデックスがテナーを吹くシーンはたくさんあるが、やっぱり悠然として、マイペースで堂々としていて、聴き惚れてしまう。
私はこの映画が大好きで、何度繰り返し見たことだろう。
ビデオはテープの画質が荒れるほど、それでも飽きたらずにLDを購入したことによって、好きなシーンを飽きるまで何度も繰り返して観たものだ。

この映画の内容や細かいところを書き出すとキリがないので、やめておくが、気に入ったシーンとセリフを1つだけピックアップしたい。

酔っぱらって、路地裏のゴミ置き場にだらしなくサックスを持ってヘタり込んでいるデイル・ターナー(デックス演じる伝説のサックス奏者)。そして、その時の彼のセリフ。

「ダメだ。歌詞を忘れた。(歌詞を忘れたから続きが吹けない)」

うーん、なんともいいセリフではありませぬか。歌を、メロディをとても大事にしている姿勢がヒシヒシと伝わってくる。
この映画、デックスのセリフの箇所は、かなりのアドリブが入っているという。もしかしたら、劇中の主人公の言葉を借りて出てきたデックスの本音なのかもしれない。
そんな彼が、一生懸命歌詞を思い出しながら吹こうとしていた曲は、「ニューヨークの秋」。
これも、すごくイイ曲なんだな。私が大好きなスタンダード・ナンバーの一つだ。

この曲を好きになったキッカケは、MJQの演奏と、バド・パウエルのピアノ・トリオを聴いて。

MJQの「ニューヨークの秋」は、名盤『ジャンゴ(DJANGO)』というアルバムに入っている。

路面から反射する日差しでクラクラしそうな暑い夏は夏で色々と大変だったね。でも、もう少しで、路面が凍りついてしまうほどの厳しい冬がやって来る。今は、厳しい気候から開放されたほんのひと時の季節のエアポケット、そう、秋だ。
この、ほんのひとときの快適なシーズン、せめて、ほんの少しでもいいから、肩の力を抜いて一休みしようよ。そんな声が聞こえてくるような演奏だ。
落ち葉が地面に舞い落ちる時期に、しかし、まだ暖かさが残っている昼下がり。セントラルパークのベンチに腰掛けて、何も考えずに空を見上げながら、煙草を一本吸いたくなるような演奏だ。
ミルト・ジャクソンのヴィブラフォンの音色のせいなのかもしれないが、なかなかヒンヤリとした心地よい肌触りの演奏だ。

そしてもう一つは、バド・パウエル。
ブルー・ノートの『ジ・アメイジング・バド・パウエル』の第2集に収められている「ニューヨークの秋」は、MJQとは対照的に、「晩秋!!」な感じで一杯の、非常に厳しい演奏だ。
MJQの演奏が昼下がりだとすると、パウエルの演奏は明らかに夕暮れ時だ。しかも、あと5分もすれば、真っ暗な夜になってしまいそうな夕暮れ。
ニューヨーク上空の空気の流れが心なしか早くなり、それに比例するかのように、気温も下がり、街の人々の足取りも早くなる。
ああ、もう冬だ。ああ、もう夜が来る。それもすごい勢いで。ああ、早く家に帰らないと。
そんな気分にさせてしまう演奏だ。
ただし陰鬱な気分になる一歩手前の状態で止まれるのは、厳しいタッチのパウエルの演奏から漂う「品格」のようなものがそうさせるのかもしれない。

対照的な「ニューヨークの秋」の演奏を2つ挙げたが、この2曲がキッカケで私はこのスタンダードが好きになった。
もちろん、演奏者によっては、なんだこりゃ?という演奏のものがあるが、MJQとパウエルの演奏がある限り、私はこの曲を好きでいつづけられることだろう。

そうそう、もちろん、デックスが吹くニューヨークの秋も大好きだ。

(2001/09/08) 

追記

そうそう、書くのを忘れていた。パウエルは、晩年にも「ニューヨークの秋」を演っている。
ザナドゥ盤のほうの、『バド・パウエル・イン・パリ』、全曲ではないが、テナー・サックスのジョニー・グリフィンとバルネ・ウィランが参加しているアルバムだ。
前半のジョニー・グリフィンのテナーは、「びゅるるるるる〜」とトグロを巻いているような迫力のある吹奏を繰り広げているが、一転してもう一人のテナー・サックス奏者、バルネ・ウイランが吹く「ニューヨークの秋」は、少し寂しげで物憂げだ。
バルネのソロの次にあらわれるパウエルのピアノがなんだか、とても哀しい。
ブロックコードで、冒頭のテーマをなぞる最初の数音が、とても眩しい。
眩しすぎるから、哀しい。
何故ならこの眩しさは、残照の眩しさを彷彿とさせるからだ。
このやわらかな光は、若かりし日のブルーノート盤に吹き込んだバージョンが持つ厳しさは感じられない。
人生いろいろあって、まるで憑き物が落ちたような平穏なピアノ。ソロの途中のフレーズのいくつかを聴くと、無邪気な感じさえ漂っている。

もちろん、パウエルの晩年のレコーディングだという先入観でそう感じてしまうことは認める。
それでも彼のピアノの一音一音を辿ってゆくと、「もう何もかも、もうそろそろお終いなんだよ」と翳り行く自身の人生に向けての哀歌のようにどうしても聴こえしまうのだ。
やわらかな光での、最後のひと輝き。
そういえば、パリで活動の拠点を移したバド・パウエルも、死の一年前には、まるで自分の死を予感していたかのように、古巣のニューヨークへ戻ってきている。
いずれにしてもバド・パウエルに「ニューヨークの秋」はよく似合う。

(記:2001/10/04)