|
今月の『ダ・ヴィンチ』(2001年2月号)に掲載されている、しりあがり寿の漫画が面白い。
『瀕死のタウンガイド オーイ・メメントモリ』というタイトルの漫画で、今月は「ユニクロの巻」。
文字通り、「ネコも杓子もユニクロ」な社会現象を諷刺した内容なのだが、なかなか語り口が面白く、思わず笑ってしまった。
「ユニクロ様のおかげで私もちょっくらカッコよくなれました」とひさまづいて祈り出すおじいさん。これを契機に店内で次々と祈り出す人々。
「ユニクロ様の安い服のおかげでケータイにお金をつぎこめます」と若い女。
「ユニクロ様のおかげで娘にバカにされなくなりました」とお父さん。
「ユニクロ様のおかげでブランドを気にしなくてよくなりました」と青年。
「ユニクロ様のおかげでセンスがないというコンプレックスがなくなりました」とメガネをかけた男。
そこから主人公の妄想がはじまる。
ユニクロを着た国民的歌手からはじまり、ユニクロを着た女子高生にユニクロを着たストーカーがつきまとい、ユニクロを着た殺人鬼にユニクロを着た被害者。血まみれのユニクロを着た患者をユニクロを着た当直医が処置し…などと妄想がどんどん飛躍し、結局最後に「ヘソまがりのボクはユニクロを着ない最後の一人になろうとちかった」と店を後にする。
おいおい、ユニクロを着ない最後の一人はオレだよと思いつつも、しりあがり寿独特の、力の抜けた毒のある絵と、少々ブラックな内容が妙にマッチしていて大笑いしてしまった。
恐らくこの漫画と同じ事を考えたりしている人も多いのだろうと思う。
すさまじい勢いで急成長を遂げているユニクロ。
なんでも「フリース」という1900円で50色の品揃えの商品は、昨年だけで850万着の売り上げを記録し、これは単純計算で国民のおよそ16人に1人が買った計算になる。今年は1200万着を目指しているそうだが…。
通常、衣類というものは手で触ったり試着した上で買うか買わないを決めるものだが、ユニクロの驚異的な売り上げは、手で触れることも試着することも出来ないインターネット上での取引きによるものが大きい。
なにせ、昨年の10月は、開設されたばかりの「ユニクロ・ドット・コム」が、電子商取引ページの利用者数では、YAHOO!、楽天に次ぎ初登場で3位になったのだから。「もっともネット上での取引に不向きだといわれていた服をネットで売る」。これだけでも常識を覆す十分に新しい販売形態だと思うのだが、商品の生産・流通の形態もなかなかユニークだ。
企画から製造、輸送、販売まですべてを自社で行う「製造小売業(SPA)」という業態を取り入れているそうだが、意外や意外、これまでの日本には無いシステムなのだそうで。生産は中国の工場で100万単位で一気に生産してしまうらしい。
生産から流通、そしてイメージ戦略や販売形態と、すべてが独創的なユニクロ、売り上げも昨年の決算では前年の2倍の2290億円。経常利益は600億。これはイトーヨーカ堂を抜く数字だ。
事業拡大もめざましく、現在のところ北海道11店舗、東北25店舗、関東155店舗、中部75店舗、近畿89店舗、中国地方29店舗、四国15店舗、九州55店舗、沖縄5店舗というすさまじい数の店舗を持つにいたり、さらには今年1年の間に100店舗の出店を考えているらしいから、その勢いはとどまるところを知らない。
急激な事業拡張によって人手不足に陥り、急速に勢いが衰え、ここのところあまり話題にのぼらない「紳士服の青木」のようにならないことを祈るばかりだが、とにもかくにもユニクロは現在「国民ブランド」を目指している。
私も読売や日経などの新聞に掲載されたユニクロの広告を何度か目にしたが、まずは低価格なのだから、どうせ安物の生地と縫製なのだろうと思った。しかし実際に購入した人の話を聞くと、そうでもないらしい(実際に手に取ったことがないのでなんともいえないが)。
近所にもユニクロの支店が出来たので、他の用事ついでに、ちょっとだけ覗いてみたことがあるが、店内のデザインといい間取りといい安い製品を売っているというチープなイメージはなく(かといって高級な感じもしないが)、なんとなく適度に無機質&機能的な什器の配列、特に店の中央の棚の高さを出来るだけ低く抑えて見晴らしを良くしようとする工夫は、少し前に流行った「無印良品」の売り場をなんとなく思い出した。
低コストで効率よく、さらに「チープな買い物をしにきた」という消費者がなんとなく感じる「ちょっとした後ろめたさ」うち消すような店内のレイアウトやディスプレイもなかなか考えられているな、と思った次第。
たしかにユニクロが続々と打ち出している販売手法は、ビジネス的には注目に値するし、今後の動向にも興味深いものを感じるので、個人的にはしばらく目の離せない企業となることだろう。
個人的には、ナショナル・ブランド、ワールド・スタンダード、デファクト・スタンダードと呼ばれるものを作り出した企業の経営理念や、商品開発するまでの苦労やウラ話、そして事業拡大の際の斬新なアイディアや目からウロコが落ちることもある革新的な発想など、こういった類の話は大好きで、高校時代はプレジデント社が出していた『マクドナルド〜わが豊饒の経営〜』なる本を読んで、「へぇすげぇなぁ、実際の現場はどーなっているのかな?」という好奇心からマクドナルドでアルバイトをしたこともある(小遣い欲しさもあったが)。
それとディズニー。以前ちょっとだけ日本のディズニー代理店と仕事をしたことがあったが、その品質とイメージ管理の徹底した厳しさには舌を巻いたし、胃に穴が開くほど(誇張です)神経質に、そして慎重に事を運ばざるを得なかった。
世界にはミッキーマウスにしろマクドナルドのあのロゴマーク、それにコカ・コーラもそうか、これらを知らない人の方が少ないのではないのかと思うほど人種・国籍・宗教を問わず世界中の人々に浸透している。
このような商品を開発し、世界中に行き渡らせ、なおかつ廃れないように常にクオリティとブランドイメージを維持してゆくことは、並大抵のことではないということは、少しだけだがバイトや仕事を通じてその徹底した厳しさを垣間見た気はする。
ユニクロのビジネス展開に私が関心を持ったのも、恐らく前述のマクドナルドやディズニーにも似たところを感じたからなのかもしれない。
さて、経営面では非常に興味深いこれらのブランドだが、こと「オレ」の個人的な好み、そう、単純な好き嫌いでいくとディズニーのキャラクターは大嫌いだし(プーさんだけ例外)、マクドナルドのハンバーガーなど不味くて食えたシロモノではないと思っている。だからこそ経営手法に関心を抱くのかもしれない。 こんなヒドイ代物を世界中に浸透させたのだから、それはそれでスゴイことだ、と。
そして、これと同様に、ユニクロの衣類って、着てみようという気がまったくおきない。
まぁパジャマ代わりに、あるいはコンビニや煙草の自動販売機などに買い物行く程度なら着れるな、とも思わないでもないが、要するに単なるヘソ曲がりなのです、ハイ。
周囲が巨人を応援するほど阪神を応援したくなる気質、ウインドウズ95の発売日に秋葉原のマック館が異常に盛り上がったというマックファン的な気質、勝ち戦に勝っても意味がない、負け戦に花を咲かせてこそ面白いと考えた戦国末期の傾奇者・前田慶次郎の考えに近いのかもしれない。いや、近くないか。そんな大げさなものではないのだが…。
ユニクロが目指している「国民ブランド」、つまり誰もが等しく身につけているものは、もはや「ファッション」ではなく「制服」だと思うのだが、まぁ多くの人は「ファッション」として服は着ていないのだろうから、そのような人からしてみれば、ベーシックなアイテムがリーズナブルな価格で買えるユニクロの登場は拍手喝采だったのだろう。
私もべつに悪いことだとは思っていない。
先述したように、全ての人がファッションとして洋服を捉えているわけではないし、服飾費は最低限に押さえて、浮いた分は趣味や生活費やケータイなどの通信費に回した方が良いからだ。
もっともユニクロを着て「おしゃれ」だと思う人がもしいたとしたら、それはどうかとは思うが。
何?ユーミンも着ていたって?
ユーミンってオシャレか?
ユニクロの服を買う・買わないも個人の自由意志。別に国から支給されるワケでも、政府が強制しているワケでもないので、着たくない人は買わなければいいだけの話なのだが、それは分かっていても、どうもユニクロが掲げているスローガン、「国民ブランド」「一人一着」などという言葉を聞くと、どうしても「制服」「等しく餌を与えられるブロイラー」といったイメージを連想してしまうのは私だけなのだろうか。
さて、「制服」と書いたところで、色々な思いがよぎったので、ちょっと話が飛ぶ。
「制服」といえば、日本人はわりと制服が好きな国民ではなかろうか、と思う。服としての「制服」というニュアンスよりは、「大前提が同じもの」という意味で「制服」という言葉を使っているのだが、たとえば携帯電話にしろ聴く音楽にしろ、まずは「持つ・聴く・共有する」ことが大前提。
ケータイを持たない、流行りの音楽を聴かないというスタイルのほうがよっぽど個性的だと思うのだが、そうではなく、ケータイのストラップや着メロという「微妙な差異」で個性とやらを競う。
たしかに選択するアイテム・グッズでその人のセンスが反映されることは言うまでもないが、ケータイを持った上での個性なワケ。
前提があまりにも違いすぎると、相手にもされない。単一民族の農耕文化ゆえの名残りなのかどうかまでは分からないが、同じ前提の持ち主でない人に対しては冷たいほどに排他的な国民性なんだなぁということは、いつも海外から帰るたびに強く感じることではある。
一人一人は皆違う。だから差異を認め合い尊重しあう。そのためにはまず「言葉」での対話からはじまり、色々な考えや可能性や選択肢を出し合う。そして、互いの考えや主張を理解しあおうと努め、妥協出来るところや踏みよれる着地点をお互いに見いだす。
少なくとも台湾やアメリカの大学生はそうだった。時に議論が白熱することもあるが、この方が視野も、考えの角度も幅も広がることもあるので有益なことだとは思う。むしろ過激な意見や主張をした方がユニークな考えの持ち主として尊敬されることが多い。逆に当たり障りの無いことしか言わない人、むっつりと黙っている人は軽蔑される。
かたや日本ではどうだ。耳障りの良い言葉だけを受け入れ、自分にとって都合の悪い意見はシャットアウト、ひどいときは攻撃の標的にさえされ、さりとて個性的でもないのに、私はこんなに変わっていますという「ヘンなコちゃん気取り」の舌足らずな言葉と主張が飛び交い、じゃあどこが変わっているのかというと、ピザの上に載せるトッピングの違いレベル程度だったりする。つまりドングリの背比べに情熱を燃やしているような…。 挙げ句、蝸角之争にも。
以前「夕刊フジ」のコラムで秋元康はこのことを「トッピング文化」と評していた。
トッピングとはピザのトッピングのこと。
多くの人は、ピザの生地の上に載せるアンチョビやオニオンスライスやハムやツナなどのセレクションや組み合わせに頭を使い、個性を演出しているつもりでいるが、しょせんはピザの生地の上という大前提は変わらない、ということ。
制服もそうだよね。学校や職場で着る制服の規格は決まっているわけだから、スカートの微妙な長さの違いとか、カバンにつけるシールやアクセサリーの差で「違い」を演出するしかない。
秋元康のこのコラムの趣旨は、トレンドを読む参考にということなので、日本人特有のこの傾向や気質の「良い・悪い」に関しては言及していないが。
確かに私もその通りだと思う。
もっと言ってしまえば、ピザという狭い土俵の上でのせせこましい差異に拘泥するチマチマした感性などクソくらえだと思うし、「オレはピザじゃなくてギョーザの皮で勝負するぜ」とか「ピザは喰いません」の方がよっぽど個性だと思うのだが、こんなことばっかり言っているからいつも「極端」だと言われるのだろうな。
ヘソ曲がりを通しているワケではないのだが、周囲がナイキを履けばオレは下駄を履くし、みんながユニクロを着ればオレは作務衣や甚平を普段着にする。
べつにこれがオレ様の個性だ!と言い張るワケではないのだが、心地良さと、自分では似合っていると思うからそうしているだけ。
たとえ1900円という安さが売りの商品といえども、売れているから、話題だから、みんなが着ているからという、ただそれだけの理由では財布の紐はゆるめたくないというだけのこと。まぁ、要するにケチなんです。
それに、ユニクロ、もしかしたらオレに似合わないかもしれないし。似合わないといえば、ユニクロだって似合わない人も多いだろうとは思うのだけれど、そういう人はどうするのかな?関係ないか。誰もが「似合いそう」な気分にさせる「ベーシック」な品揃えがユニクロの戦略でもあるわけだから。
本当に国民一人に一着の割合で売れてしまったら、逆に「着ない」というスタイルの方が新鮮になるのだろうな。
ビジネス的な展開や、今後の行く末に関しては個人的にはかなり興味をそそられるユニクロだが、私は今のところ、そして恐らくは今後もユニクロは着ないだろう。
しりあがり寿の漫画の登場人物とどちらが最後に着る人になるのか、いい勝負になりそうだ。
(記:2001/01/22)
|