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まず仮説。
演歌を聴いて日本人はやっぱ「コブシ」だねぇ、とか日本人の血が騒ぐねェとおっしゃる人がいる。
演歌のコブシは日本独自のものではない。発祥は中近東らしい。
演歌は「日本人だから」歌えるものではないし、「日本人だけが」感動できるものでもない。民俗固有の特権的な身体的感受能力というものは無いのだ。
要は「クセ」の堆積が、その人の好み、嗜好を決定ずけるということ。
ものすごく乱暴に言ってしまえば、我々は「西8:和2」の割合で旋律が身体に染み込んでいるのだろう。
好むメロディの好き嫌いは、自分自身の「感性」とやら以前に、「刷り込まれた」旋律との対照、比較作業の結果の占めるパーセンテージのほうが高いのではないか? よって世代間においての音楽の価値観のギャップというものは必ず、ある。
童謡と民謡しか唱ったり聴いたりしたことのない明治時代の人は滝廉太郎や山田耕作のメロディは自然にカラダに受け入れるだろうが、おそらくビートルズには抵抗を感じるだろう。それどころか昭和の初期生まれの人もダメな人はダメなのだろうね。 「ハーモニー」も時代によって感じられ方が違う。
「7ht」コードといえば、ロックンロールやブルースのベースラインなどを思い浮かべていただければ何となく分かってもらえるかもしれないが、独特の少し「鼻につく」響きのコードだ。 それどころか、現在の我々にとってはシットリと情緒たっぷりの響きに感じてしまう「メジャー7th」の響きですら、当時の人は「ハモっていない(不協和音)」と感じていたそうだ。 時代とともに音の価値観は変わる。 どの時代の音楽も、前の世代から受け継がれて来た手法をベースにしつつも、一部の先鋭的な表現者の手によって少しずつ新しい要素や冒険が付加される。当然これらの要素を受け入れることのできない保守的な人も多かったのだろうが、少しずつ伝播し、いつしか次世代の主流となる。 「あんなの音楽じゃないよ、騒音だよ。」 きっと、このフレーズはあらゆる時代のあらゆる世代の人によって、それこそ大昔から何千何万回も言われていたのだろうし、これから先の時代にも無限に繰り返されるのだろう。 例を2、3点ほど…
オーネット・コールマンの『サムシン・エルス!』は、発売当時('58年)は「世紀の問題作」として評論家やミュージシャンの間では賛否両論が真っ二つに分かれたそうだが今の耳には普通の、あるいはちょっと変わった4ビートジャズにしか聴こえない。 私が初めて「グランド・マスター・フラッシュ」を聴いたときは、「歌わず、リズムに合わせて喋る」という表現方法に強烈なショックを受けたものだが、今や「ラップ」は音楽表現における多様な選択肢の中の一つでしかない。 などなど…
日本的なメロディと全く隔離された地域で生まれ育った「日本人」の子供は、将来何らかの機会に演歌や民謡を聴いたとする。ひょっとしたらもの珍しさで好きになる可能性はあるかもしれないし、新鮮な感動を覚えるかもしれない。
繰り返そう。問題なのは日本人という「形質」ではない。
そして、当たり前だが流行を共有した世代間とのギャップというものは必ず存在するし、世代ごとにメロディの好みが違ってくるのもこれまた当然のことなのだ。
(記:1999/11/16)
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